Vasinal Novel

デッドコピーはおはやめに

 生まれて初めて、走馬灯を見た。
 目の前には大型トラックの正面があって、スローモーションの視界には見るからに慌てた運転手の顔が見える。
 いくつかの偶然が重なった結果だった。遠くで自動車があらぬ方向にハンドルを切り、避けるようにして動いたトラックが自身の遠心力に振り回される形で歩道に突っ込む。交通事故としてあまりに明快な構図だ。
 俺が住む学園都市は急速な近代化の最中にあって、ガードレールも『魔鉄』という次世代超常金属に置き換えられている。だからといってガードレールという構造が万能というわけではない。トラックのタイヤがガードレールをよじ登る様を見て、己の不運を呪った。
 俺は死ぬ。覚悟もなく確信してしまう。俺の目の前に女性が飛び出してきたことも、無謀だと思いはすれど口にする暇はなかった。
 金属と肉がブチ当たる嫌な音がした。
 だが、なぜか衝撃はまったくなかった。

「……は?」

 反射的にマフラーに埋めていた顔を上げ、前を向く。目の前では、ナップザックを背負ったパンツスーツの長身の女性が突っ立って、勝利を宣するように片手でトラックを持ち上げていた。それ以外の情報がまるでなかった。逆にそれが混乱させてくる。

「あ、やべ」

 パンツスーツの女性から、凛とした後ろ姿から想像できないほどの軽い口調が聞こえてくる。
 彼女はその姿勢のまま後ろに振り向くと、地面にへたり込む俺を見咎めて空いた手で手刀を切った。目の半ばまで伸びた髪が、風に煽られてわずかに揺れる。

「ゴメン少年! これ見なかったことにできない?」
「ちょっと無理な相談ですね……」

 絵面が強烈すぎて一生忘れなさそうだ。

「それより、もう手を離してもいいのでは……?」
「あー……。もうちょっと待たないといけなくてね?」

 彼女は苦笑いしたままトラックに手を添えている。よく見てみると、トラックの色に紛れているが、彼女の手を起点として細長い何かがトラックの全方位に伸びている。それは段々と縮み、最後には見えなくなった。

「よし、行こうかぁ少年! 何か奢ってあげよう!」

 トラックの上体を道路に豪快に置き、何事もなかったように両手を叩いて汚れを落としながら彼女は言う。周囲から向けられる感嘆の視線やまばらな拍手に、やらかしたと言わんばかりの表情で会釈してから、こちらに手を差し出した。その手を取りたいのは山々だが、今はできそうにない。

「ちょっと腰抜かして動けないので大丈夫です。助けていただいて――」
「なら背負っていこう! はいゴー!」

 背中を向けて屈んだ彼女が、腰に手を当ててカモン! とばかりに手招きする。話を聞いてほしい。

「既に背負っているものありますよね? 無理じゃないですか?」
「じゃあお姫様抱っこする?」

 悪化した。言わなきゃよかった。
 屈んで丸太を抱え込むような姿勢で手招きをし始めた彼女に頭を抱える。彼女の怪力は先程の出来事で証明済みだが、こう、絵面的に抵抗感がある。

「それはちょっと……」
「えー、面倒だから俵担ぎにするね。拒否権なーし」

 そう言うと、猫のように両脇を掴んで引き上げ、乱暴に肩に担いでしまった。俺の身長は一八八センチ。彼女は俺より頭一つ小さいだろう。それだけ身長差があると、俵担ぎは嫌な意味で絵になった。周囲の視線がとにかく痛い。

「はいじゃあゴーゴー!!」
「いやあの、歩け……ないんですけど! これだけはやめてください!!」

 もちろん、この拒否は受け入れられることもなく。俺は場所も知らされずに連行される。



「炭酸って大丈夫?」
「むしろ好きです」
「よかったー。はいどうぞ」

 手渡された缶コーラの口金を傾けると、小気味よく炭酸が弾けた。季節的に温かい飲み物がほしいと思う反面、季節関係なく美味い炭酸飲料の刺激が嬉しい気持ちもある。
 連行されたのは、大通りとは少し離れた公園だった。一つだけあった木製の長椅子に下ろされ、彼女が近くの自販機で買ってきてくれたものを、今飲んでいる。

「奢るって言ったからファミレスかと思ったでしょ? 正直それでも良かったんだけど、お仕事まだ残っててねー。これで勘弁して」
「仕事ですか……。この周辺で、製鉄師としてお仕事をされているんですか?」
「アー、ナルホドネ。えーっと、製鉄師ではあるんだけど、本業としてはいなくてね」

 最初のほうが微妙に棒読みに聞こえたのは気のせいか。
 それを聞き返そうかと思っているうちに、彼女は言葉を継いだ。

「市立図書館で書架の整理とか色々してるの。最近は私の趣味が認められて鉄暦サブカルの担当になったから、色々と所蔵できないか調べててね……! 昔々、暦がまだ西暦と呼ばれてた頃に作られた数多の傑作奇作を集めるのが私の使命なんだよ……!!」

 予想していた以上の熱弁が返ってきて、身体が仰け反る。
 彼女の目のキラキラ具合からして長引きそうだ。話題を変えよう。

「なるほど……。対応慣れされていたので、てっきり本業の方かと思いました。魔女の方にもお礼を言いたいのですが、どちらにいらっしゃいますか?」
「うちの魔女、ちょっと別件でこっち来られなくてね……」

 製鉄師の近くに魔女がいない、というのは珍しい話だ。基本的に魔女が近くにいないと、製鉄師はその力を発揮できない。
 本当に製鉄師なんだろうか。

「……本当に製鉄師の方ですか?」
「エ、ナニイッテルノ。この細腕で、車持ち上げたりなんて製鉄師くらいしかできないでしょ?」

 また意味もなく棒読みになったが、それもそうだ。
 他にできるとしたら……。

「……他にできるとしたら、魔鉄人形くらいですね」
「私を魔鉄人形だって言ってる?」

 眉根を寄せる彼女を見て、慌てて否定の手振りをした。

「いえいえ、そんなわけないじゃないですか。冗談ですよ。いきなりすみません」
「よかったー。急に人間の紛い物だって言われたから、ビックリしちゃったー」

 そう言いながら悪童のような笑みになる彼女とは対照的に、俺は思わずしかめっ面になった。その物言いは看過できない。

「……魔鉄人形は、人間の紛い物じゃないですよ。魔鉄と人が生み出した新人類です」

 口を突いて出た棘のある物言いに、しかし彼女は悪童の笑みを崩さなかった。

「新人類ときたかぁ。じゃあ、ここは人間と魔鉄人形の婚姻を容認してるけど、魔鉄人形と人間とだったらどっちと結婚したい?」

 なんでそんな話になるのか皆目見当もつかないが、問われた以上は言葉を返す。

「正直、魔鉄人形と人間だったら魔鉄人形ですね」
「迷いがない」
「人間で俺と結婚してくれる人いなさそうなので……」
「選択肢がないのかー」
「生憎と……。聖刀学園に進学するんですが、魔鉄加工技師としてなんです……」

 聖刀学園は、長野は上田に座するこの学園都市に構えられた、国のOI能力者教育機関の一つだ。
 過剰Overd想起Imageの略であるOIは、この物質界とは別位相にある霊質界の風景を強制的に見させられる特異体質である。OI能力者は、その風景を基盤とした異能を振るう製鉄師、その風景を魔鉄に流し込んで魔鉄器という様々な器物を鍛える魔鉄加工技師のどちらかになるため、学園の門扉を叩く。
 俺の場合は後者なのだが、恋愛とか結婚云々だと大きな問題が一つあった。

「女の子の魔鉄加工技師もいるっちゃいるけど、男の子多いもんね。製鉄師のほうは魔女と契約すると高確率でカップルになるし、近距離でイチャイチャ見せつけられる魔鉄加工技師は世知辛いねー」
「左様です……。って、なんでこんな悲しい話をしないといけないんですか。魔鉄人形の話ですよ」
「別によくない? というか、私を見て魔鉄人形だと思う? どう見ても人間に見えない?」

 そこまで話題を戻すつもりはなかったのだが。それもそうだ。
 興味もなさそうだし、ここでやめておこう。
 缶を傾け、コーラを口に含む。飲み物を持っていなかった彼女が所在なさげに手を遊ばせていたので、腰を横に動かして手振りで着席を勧めた。それに彼女は遠慮の仕草を見せる。

「もう大丈夫そうかな。んじゃ、図書館にきたら声かけてねー」

 手短に言葉を発した彼女は、俺の視界の先にある公園入口に足を向ける。
 その背中に向け、すっかり言いそびれていた言葉を投げた。

「先ほどはありがとうございました。お名前を伺ってもよろしいですか?」
于神依ゆかむいふみだよー。司書さんに『ふみさんに会いに来ました』って言ったら通じるから、よろしくねー」

 ひらひらと手を振って、彼女は歩き去ってしまった。
 その背中が見えなくなるまで視線で追ってから、立ち上がって少し気の抜けたコーラを一息に煽ると、中身が無くなったそれを手近なゴミ箱に滑り込ませた。
―――事故で死にかけたら、製鉄師のお姉さんが颯爽と助けにきて、コーラを奢ってもらった。
 今もその現実を飲み込めていないが、ともかく日常に戻らなければならない。



 思い返すと、相当な恩があるのではないか。
 そう考えたのは、深夜にコンビニへ買い物に出かけたときだった。

「死ぬはずだったのに助けてくれたんだよな……。お礼の言葉だけでよかったのかな……」

 図書館で働いていると言っていたし、今度会うときに御礼の品を渡したほうがいいかもしれない。
 といっても、何を持っていけばいいか見当もつかなかった。鉄暦サブカルが好きということしか知らないし、それはそうそう市場に出回るものでもない。コンビニの書籍棚にも、そんなものありはしないだろう。
 コンビニの自動ドアをくぐると、こじんまりとした書籍棚へと向かい漫画雑誌を手に取る。電子書籍のみになる漫画雑誌がほとんどな中で、この雑誌は鉄暦からずっと紙媒体も同時発売していた。最新号のおまけは、連載中のヒーロー漫画の主人公のアクリルキーホルダーらしい。あんまり詳しくないが、昔もヒーロー漫画は読まれていたのだろうか。今度会ったときの話題の種になりそうだ。
 漫画雑誌を袋に詰めてもらい、端末で支払いを終えるとコンビニを後にする。端末で時刻を確認すると、もうすぐ日を跨ぎそうだった。ついでにバッテリー残量も終わり間近だ。支払いのときまで持ってくれてよかった。
 寝るために足早に家へと向かい、そこでふと本来の買い物を忘れていたことに気づく。そんなに離れていなかったので、踵を返して再度の来店をしようと思ったところで、道の向こうから誰かが走ってくるのが見えた。耳を澄ますと、風切り音や何かがコンクリートを弾く音も聞こえてくる。

「うおぉ、人がいる!? 君ー! そこ危ないから避けて!?」
「于神依さん!?」

 こちらに向かって走ってきたのは、さっき会ったばかりの彼女だった。常人では到底出せない速度の彼女に掻っ攫われる形でお姫様抱っこされ、状況を飲み込むために背後を見る。白い翼を背中から生やした細身の男と、両腕が中途半端に毛むくじゃらになったタンクトップ姿の小太りの男が、小さな少女を引き連れて走ってくる。
 于神依さんは抱きかかえてやっと俺が誰だかわかったらしく、わかりやすい驚きの表情を浮かべた。

「あれ!? あのときの少年じゃん。何持ってんの、エッチなやつ!?」
「違いますよ!!!! 漫画雑誌です!!!!!」

 凛とした表情から放たれる自由すぎる発言に、間近にいるにも関わらず大声で反論してしまう。

「というか、抱きかかえる必要ありました!?」
「後ろの人たち見境なくてさぁ!! このままだと射線上の君も殺しかねなかったんだよぉ」
「魔女さんどこにいるんですか!? いたら反撃も――」
「えーっと、散歩で出かけただけだし一緒に住んでないから連絡手段がないんだよね!!」
「え、じゃあなんで製鉄師から逃げられるんですか」
「……これが素ってことで!」

 この状況下なのに、信用できない要素がまた一つ増えてしまった。
 本当に製鉄師なのかこの人。

「ホントに魔鉄人形だったりします?」
「いやだなぁ、私のどこに魔鉄人形要素が?」
「ちなみになんで追われてるんですか?」
「私が魔鉄人形だって疑われてるから」
「ほらやっぱり!!!!!」

 彼女は、すっとぼけるように口笛を吹き始めた。

「こんな状況じゃなかったら諸手を挙げて魔鉄人形と出会えたことを喜びますけど、勝算あるんですよね!?」
「今のところないね!!!!」

 バッサリだった。

「少年、知ってる? 製鉄師は製鉄師じゃないと倒せない、既存兵力じゃ倒せないんだよ? だから西暦と呼ばれた鉄暦が終わって、製鉄師と魔女のコンビが既存兵力の代わりになって、少年みたいな魔鉄を武器兵器に加工する魔鉄加工技師が兵器廠の代わりになったんだよ? 私がどんなに歯向かっても勝てる相手じゃなくない?? アンダスタン?」
「今どき一般校の世界史の授業でもやってますよそんなこと!!」

 あと、まだ魔鉄加工技師になる勉強はできていないのだが、突っ込むだけ面倒だ。

「これからどうするんです!?」
「えーっ、とりあえず逃げます」
「教科書に載りそうなくらい無計画の塊ですね!?」
「人に襲われる計画立ててるほうがよっぽどおかしくない!?」
「魔鉄人形なら人に襲われる想定で生きててほしいんですが!?」

 魔鉄人形は、一体売れば億万長者とも噂される存在価値なのだ。それを理解してほしい。間違っても地方都市を夜中に散歩していいような存在ではない。
 そんなふざけた会話をしていると、足元を鋭い風が通り過ぎて行った。自然の風とは明らかに違う攻撃性に、足が粟立つ。

「うわ!? え、ちょっ、なんですか足の近くを風が、えっ!?」
「風を起こして切断する製鉄師の攻撃だねぇ、当たったらスパッといくよ」
「はぁ!?」

 本当に見境がなさすぎて涙が出てくる。魔女は一人しかいないように見えたが、翼持ちの製鉄師の魔女はどこにいるのだろうか。あの魔女一人で賄っているんだろうか。だとしたら勘弁してほしい。

「ホントに、ホントに洒落にならんのでなんとかしてくれません!? 」
「いやゴメン今はどうにもなんなーい」

 あくまで呑気に彼女が言う。

「オリジナルは高速変形が主だけど、私はそれができないんだよねぇ。せいぜい金髪豆粒ドチビさんよろしく腕の部分の魔鉄を伸長させて刃にするくらいかなぁ。なまじ私の中に入ってるOIが濃いからバターみたいにバッサリっていうのはないんだろうけど、あんまり得意分野じゃないから押し負けそう」
「……え。オリジナルとかいるんですか……?」
「うん、同型個体が一〇〇〇〇体はいるかな。増えるんだよね私たち」
「……こっっっっっっっわ!!!! それ絶対に! 相手に! 漏らさないでくださいよ!」

 億万長者になれる存在が一〇〇〇〇体もいるこの都市、もしかしなくても巨大な火薬庫なんじゃなかろうか。考えたら寒気がしてきた。

「私は高速変形できないけど、他の持ち味があるからねー。持ち味を活かせるところを探しながら逃げてるところ。この先って新規開発地域だし、鉄骨しかないビルとかあれば戦いやすそうなんだよねぇ」
「ってことは勝算があるんですか」
「勝算はあんまりないかな。相手の練度の低さに期待するしかない感じー」

 そう言う彼女は思案顔だ。

「翼持ちが飛ばないで風の刃飛ばしてるのも、獣化持ちが脚力自慢じゃないのも気になる。多分、製鉄師としては位階が低いんじゃないかな。あと、変則的に動いているとはいえ走る敵に対してまったく攻撃当たってないところから考えると、普段は動かないまとに練習してるんじゃないかなーって思ってるけど。売るから傷つけたくないだけかもしれない。ちょっとわかんないね」
「じゃあ勝算がないのも同義じゃないですか」
「勝算勝算うーるさいなぁ。そういえば連絡手段ある? それが一番の勝算なんだけど」

 あ、忘れてた……。

「ありますあります!!! ちょっと待ってください!!」
「はいよー」

 呑気に返す彼女の腕の中で、上着から端末を取り出そうとする。何度かつっかえてやっと取り出したそれを、両腕が塞がっている彼女に画面が見えるように差し出した。

「ありがと。うわー、電池ギリッギリ。充電しなよ」
「今日の予定はコンビニ行くだけだったんですよ、本来は! 警察に連絡しますよ! 署に詰めてる製鉄師にきてもらいましょう」
「あー、待って待って。少年、今混乱してるでしょ。都合上、私は公権力おおっぴらに頼れないから、今から言う電話番号に繋げて」

 指示通りに画面をタップしようとして、手が震えていることにやっと気づく。だが今は気にしている場合ではない。言われた通りに電話番号を入力し、受信部を彼女の耳に押し当てる。
 しばらく彼女は思案顔で首を傾げていたが、やがて渋面を浮かべた。

「げーっ、理事長寝てるっぽい。となると理事長経由は厳しいかぁ。跳板さんに直で繋げられる人ってほとんどいないよなー。あんましたくないけど、オリジナルに電話入れるかぁ」

 また別の電話番号を告げられ、何度も打ち間違えながら発信まで至る。先ほどと同じように受信部に耳を押し当てた彼女は、やがて悪童のような笑みを浮かべた。

「姉ちゃん、私だけどー。え? 姉ちゃんはやめろって? 母ちゃんって呼ぶ?」

 どういう家庭環境だ。

「ごめんごめんごめん悪かった。今さ、緊急事態だから姉ちゃん経由で跳板さん呼んでくれない? いや、時間稼ぎするってなると公権力に頼れないからさぁ。相手も言葉通じなさそうだしー。うん、ごめんだけどよろしく。お礼はスパイダーマンのスピンオフ新作マンガの単行本全巻で。え、いらない? あそう、じゃあねー」

 やがて、んべっと舌を突き出して画面を舐め始めた。慌てて画面を見ると、通話が切られた状態になっている。服で唾を拭いながら、ふと湧いた疑問を口にした。

「跳板さんって……」
「あれ、知らない? 跳板はねいた遠見とおみ。聖刀学園理事長秘書、製鉄師としては最高位階の振鉄位階だよ。縛りがなければ大阪に一報入れれば解決だけど、無理だしね」

 彼女が言っているのは、たぶん音速移動できる大阪の聖憐学園理事長のことだろう。そう易々と大物がきてくれたら苦労しない。

「ま、当面は走ってればなんとかなるでしょ。魔鉄人形の無限のスタミナについてこれるかな……!?」

 彼女の姿勢が少し下がり、さらに加速する。自動車に乗っているように風景が流れ、強い風に自然と目が細くなる。俺がいたコンビニは郊外だが、山に近い新規開発地域とはそれなりに遠い位置にあった。それでも進行方向を向けば数多くの工事中の建物が目に入る。道の端には真新しい街灯が並び、それがあるところで工事用のライトに切り替わっていた。その手前には工事中とひと目でわかる看板がかけられ柵まで張られている。
 しかし彼女は構わず、蹴倒して前に進む。今まで細々とした地面の反射が粗くなり、そこで地面に敷かれたものが違うことを理解した。
 先ほどの走馬灯ほどでもないが、これもスローモーションに感じた。舗装前の砂利道に彼女の足が着く。踏ん張りが効かない足場に早すぎる移動速度が乗ったとき、どうなるのか。
 答えは明白だった。



 俺を庇うように腕を掲げ、彼女は顔面から地面に倒れ込む。顔を上げた彼女が無傷なのを確認し、改めて人間ではないことを理解した。

「製鉄師から逃げうる身体能力、怪我を負わない剛性、間違いなさそうだな。魔鉄人形、我が『同盟』の礎となるがいい」

 先ほどまで追っていた製鉄師たちが、無機物を眺めるように俺たちを見る。翼持ちの背中から、小さな少女が顔を覗かせた。魔鉄による自動翻訳で言葉は通じるが、外見を見る限り海外の人だろうか。街灯に照らされた四対の青い瞳の無感動さに、全身に怖気が走った。
 『同盟』。聞いたこともない組織だ。どんなことをしていたら、こんな瞳で見ることができるようになるのだろう。

「そちらは民間人か。通報されても面倒だ。殺して埋めよう」
「え、ちょっと待って。私が大人しく捕まるから、この子は見逃して? ね?」
「人形に発言権はない」
「えぇ~……」

 端的に返され、彼女は気の抜けた声を返した。
 このままだと殺される。彼女も売られる。この場でできることは……一つだけある。

「ま、待て! さ、ささっき俺が、俺が警察に通報した! 場所も伝えた! 俺が誤報だって連絡し直さないとくるぞ! この街の振鉄位階が向かってるんだ、お前らが同じ位階にいない限りは厳しいだろ!」
「……既に通報済みということか。振鉄位階は学園の教師しかいないと思っていたが……。計算外だ」

 ちゃんと引っかかってくれた。振鉄位階は跳板さんのことだったが、誤解してくれているのはありがたい。

「なら、早く誤報であると伝えろ」
「いや、実は充電切れで……」

 差し出した端末はしっかりと充電切れで、それを見せるとこちらに聞かせるように舌打ちをした。

「近くに充電できそうなところはあるか?」
「そこの工事現場にコンセントないかな?」

 呑気な思案顔を浮かべた于神依さんが斜め後ろを指差す。その先にあったのは、ビルの鉄骨組みが高くそびえ立つ工事現場だった。

「工事現場なら自家発電機とかありそうだけど」

 翼持ちの製鉄師が思案する表情を浮かべていたが、すぐに頷きを返す。

「いいだろう、人形の提案を呑んでやろう。充電が始まり次第、すぐに通報を取りやめてもらう」
「わかりました」

 なんでこいつらこんなに偉そうなんだ?
 疑問を浮かべるが、相手に質問している暇はない。製鉄師たちは細い魔鉄紐を持っており、それによって雑に手首を後ろ手に縛られる。彼女は背負っていたナップザックを奪われ、その上で後ろ手に縛られていた。毛むくじゃらな男が持ったとき、ナップザックの腹がわずかに光ったように見えたが、もう一度見てみても同じものは見えない。
 俺たちを縛り終わって安心したのだろう。製鉄師たちは彼女のナップザックを開けようと試みていた。ファスナーを開ける音が聞こえ、次いで四人が首を傾げた。

「人形、満載に入っているこれはなんだ?」
「魔鉄の糸だよー。ちょっと入用でね。人に届ける予定だったんだ」
「なんだつまらん」

 聞いておいてあんまりな返答だったが、ナップザックいっぱいに魔鉄の糸が入っていたら似たような反応をしそうなので理解はできる。
 ナップザックに手を突っ込んでかき混ぜるようにしていた翼持ちは、やがて諦めたように手を振ると、毛むくじゃらの男を建設現場に仮設されたコンテナへと走らせた。毛むくじゃらの男の手には俺の端末が握られていて、それを充電しに行ったのだろう。それが終わるまで、ここで終わりを待つしかない。
 我ながら、拙い時間稼ぎだったと思う。これで何かができるわけでもないが、せめて最後に彼女に雑誌を渡したかった。無害だからと持つことを許されているが、手首が縛られている今、それは叶わない。
 際限なく沈む気持ちを奮い立たせようと、彼女のほうを見る。

「ようやく私の本領発揮ができるねー」

 そこにあったのは、先ほどと変わらない笑顔だった。

「少年、雑誌はちゃんと持ってる? 落とさないようにね?」
「え?」

 よく見れば、彼女は既に手首を自由に動かしていた。縛っていた魔鉄紐がどこにもない。どこにいったのだろうか。
 疑問を口にする前に、彼女は仰々しく右腕を製鉄師たちに向けた。安心しきった彼らの手にあったナップザックが不意に動く。直角の動きで跳び上がったそれは、驚く製鉄師たちを置き去りにして凄まじい速さで彼女の身体に飛び込んできた。そして、それが当たった瞬間に大量の糸となって解け、彼女の周りに散らば……らなかった。まるで意思を持つように、それらは彼女の周りに浮遊している。

「ほいっ、じゃあ行くよぉ!!」
「えっ、ちょっ……!!!」

 彼女が腕を俺の腰に回したのと、彼女が上に飛ばしていたらしい糸が俺たちを引き上げたのはほぼ同時だった。呆気にとられる敵を後目に、想像以上の速度で糸は俺たちを上昇させ、あっという間にビルの頂上の鉄骨に足をつかせた。高所だからこその寒く強い風に、咄嗟に縦に突き出た鉄骨に身体を寄せる。錆とは無縁な魔鉄の光沢は、風の影響を受けず寒すぎない温度だ。少し安心する。その次に覚えたのは、現状に対する純然たる驚きだった。

「そんなことできるんですか!?」
「そうそう。オリジナルが高速変形を持ち味にしているように、私は魔鉄糸を編み上げたり解いたりする技能に特化してるんだよね。ちなみに私のスーツも身体から伸ばした魔鉄糸だから、伸ばしすぎると全裸になるよ」
「今世紀で一番いらない情報ですね……!」
「なーんだ、有益情報だと思ったのに。じゃあ少年のも解いちゃうから、背中向けてー」

 言われるがままに、身体を動かす。手首をいくつもの糸がくすぐり、くすぐったがっている間に拘束感が失われた。どういう原理なのか気になり尋ねようと振り向いたところで、無防備にも鉄骨から身を乗り出して下を覗き込む彼女を見咎めギョッとする。

「なにやってるんですか!?」
「敵情視察ー。割りとゆっくり昇ってくるけど、速度からして逃げるのは微妙だなぁ……。アメスパみたいに人間ミサイルするかぁ。クレーンの砲身ないけどなんとかなるでしょ」
「なんですか、それ……」
「魔鉄暦復刻版のブルーレイが我が家にあるから、今度遊びに来たら観せてあげよう!」

 テンション高めにポーズを決めた彼女は、準備と言いながら俺を連れて二つ奥の鉄骨に移動した。先ほどいた一番外側の鉄骨に目を向けると、突き出た鉄骨二本に向けてそれぞれの腕を掲げる。彼女を取り巻く魔鉄糸が彼女の腕にまとわりつき、そして減っていく。何度か引っ張るように腕を曲げた彼女は、身体を後ろに倒し、足を強く突っ張った。まるでボウガンに番えられた矢のようだ。
 そして敵の翼が見えた瞬間、それは解き放たれた。しかし、鉄骨と鉄骨の間を進む途中に足が少し下がったらしく、肉と鉄が激突する嫌な音を立てて、彼女は錐揉み回転しながら上がってきた翼持ちの製鉄師にブチ当たった。不意を突かれた形にはなったが、製鉄師が製鉄師にしか倒せない所以である『魔鉄の加護』というバリアに阻まれて、相手を驚かせる程度の効果しか発揮していない。
 ズルリと落ちた彼女は、手をこちらに向けるとまるで振り子のようにビルの中に入っていった。
 そして俺の左側から軽やかな落下音が聞こえてくる。恐る恐る見ると、先ほどギャグみたいに製鉄師と激突した彼女がいる。

「ミスったー。ドロップキックするはずだったのに」
「あれで万策尽きたわけじゃないですよね?」
「流石にね。それはないよ、うん」

 万策尽きてそうだった。

「これからどうするんですか? 逃げ……られないですよね?」
「流石にねー。翼持ちに背を向けて逃げられないよ。相手が足つけたら風ブレードでこっちを斬れるしね。お互い無事じゃすまなさそう」
「あれ、糸はどこに?」
「見えないように色変えた。多少は役に立つはずだよ」

 そう言うと、彼女は一つ前の鉄骨に飛び移った。製鉄師たちは、相対するように一番外側の鉄骨に足を下ろす。毛むくじゃら製鉄師の相方の魔女が、慌てて突き出た鉄骨に掴まりに行ったのを見て、相手も人間なのだと少し安堵した。

「君はちゃんと漫画雑誌持って、鉄骨から落ちないようにね! 君を生かす保証はできないけど……信じて!」

 こちらに背中を向けたまま、朗らかな声でサムズアップする彼女。今この状況において信じられるのは彼女しかいない。
 最初に動いたのは、翼持ちの製鉄師だった。翼で鋭く背部の大気を叩き、弾丸もかくやという姿勢で突っ込んでくる。腕は緩く前に出され、おそらくは彼女を捕まえようとしていた。対して、彼女は左腕を軽く引っ張り、スライドするように位置をズラす。避けられ弧を描くように上空に舞い上がる翼持ちを見ながら、ふと思ったことが口を突いて出た。

「なんか、製鉄師らしくないな……」

 製鉄師はOIによって見える異世界の風景によって縛られた人々が、魔女という格納庫にそれを押し込めて適宜使えるようにした異能力者だ。異世界にはこちらとは違う法則が適用されていることが多く、それは物質界の自然法則を超越する。
 だというのに、この翼持ちは自然法則に縛られている。その点で、行動の予測は容易だった。目標を俺の突き落としに変更したらしい翼持ちが空から襲いかかってくるが、すんでのところで回避する。こちらに注意を向けている限り風の刃は出せないのだから、これだけでも彼女の助けになるはずだ。
 ふと彼女の様子が気になって、避けた瞬間を見計らって視線を動かすと、残り二人を相手に善戦する姿があった。毛むくじゃらが短く鋭い爪を振り上げると、彼女はそこに手を向け、糸を駆使して相手の腕をあらぬ方向に動かしバランスを崩す。背後から捕らえようと動く魔女に向けては、足の近くに糸を設置したのか古典的な罠のようにすっ転ばせていた。
 仮にも戦場とは思えないようなコミカルな光景に口角が上がるが、そこで不意に首が絞まる。

「余所見とは、死にたいのか?」

 翼持ちに襟首を掴まれたのだ。視界が青黒い夜空を映し、上から叩きつけられる風が上空に引き上げられたのだと否応なく理解させてくる。ワンパターンなこちらへの飛び込みで完全に油断していた。恐慌に喉が高く鳴り、反論を封じられる。
 不意に上からの叩きつけがやむ。血が滞って考えがまとまらない頭が、青黒い色の中に点在する白を見出した。新規開発地域は山に近く、中心街からは離れている。まばらな街明かりは視線の先にあり、視線の端には翼持ちの顔があった。逆光で見えにくいその顔は、おそらく思案しているのだろう。

「ここで人形に……あぁ、クソ。こちらを微塵も気にしていない。守ろうとしていたのかと思ったが違うのか? それともこちらを舐めてかかっているのか?」

 こちらにも聞こえるようにして舌打ちした翼持ちは、声を荒らげ不快を露わにする。それに首根っこを掴まれているこちらは気が気でない。
 いつ終わらされるのだろうと思い、現実逃避として街明かりに視線を向けたとき、それはきた。



 街明かりを覆うように、薄く白い板がこちらに滑ってくる。目測だとあまりわからないが、おそらくはこのままくれば上空にいる俺たちにぶつかる高さだ。なんなのかはわからないが、このままぶつかれば被害は免れない。恐慌に封じられた喉をなんとか動かして、まだ気づいていない翼持ちに警告する。

「後ろ……後ろ見ろ……!」

 律儀にも後ろを見てくれたお陰で、俺たちはギリギリ死なずに済んだ。回避しようとした翼持ちは左の翼を半ばまで板に削られ、大きくバランスを崩した。しかし、その流れで襟首を掴んでいた手も離されてしまう。

「クソ、振鉄位階がぁ!」

 翼持ちの悔しげな叫びで、それが跳板さんによるものだと理解した。
 今度は下から風が叩きつけられる。視界は白い板を映し、強張る身体は自然法則に身を委ねる他なかった。このまま、鉄骨に叩きつけられて死ぬか、地面に叩きつけられて死ぬか。本来は、その二択が待っているはずだった。
 しかし、そうはならなかった。身体に幾重もの糸が絡みつくのと、叩きつける風が弱まるのを感じる。気づけば、鉄骨と鉄骨が作る四角形の中央で、パンに挟まれた肉のように糸に絡め取られていた。

「少年! 大丈夫!?」
「ありがとうございます! 大丈夫です!」

 糸は蜘蛛の巣のように張られており、やがて挟み込む上部の糸が剥がされた。這いつくばって元いた鉄骨まで戻ると、目の前の鉄骨で翼持ちがうつ伏せに倒れている。最初は気絶しているのかと思ったが、徐に立ち上がった翼持ちが背中の魔女の安否を気遣うようにこちらを向くと、大きく翼を広げた。それは風の刃が放たれるということであり、彼女の向きだ。味方ごと巻き込む気なのか。
 咄嗟に、手に持っていた雑誌をビニール袋ごと投げつけた。それは翼持ちの後頭部に当たり、鉄骨の下に落ちていく。
 予想もしない後頭部への感触に、怪訝そうに翼持ちが振り返る。
 しかし、それ以上の反応が別のところからきた。

「あー!!!!!!!!! ちゃんと持っててって言ったのにー!!!!!!!!」

 明らかな怒気を含んだ大音声だいおんじょうに、本人以外の全員が肩を跳ねさせた。戦況を無視して、人形のような無表情がこちらの鉄骨に跳んでくる。軽やかに隣に降り立った彼女は、俺の肩に手を置いた。

「漫画を粗末に扱った罰」

 軽く押され、身体の軸が後ろに傾く。そこに先ほどの糸はない。鉄骨の間をすり抜け、真っ逆さまに落ちていく。

「……は?」
「罰として、一緒に取りに行ってもらうから」

 先ほど感じた以上の風が背中を叩く。呆気に取られた敵方を置き去りに、凄まじい速さで地面へと落下していった。思考が現実への理解を拒んで、泣き叫ぶ声すら発することができない。俺から少し遅れる形で落下していた彼女は、服の繊維を更に解きながらこちらとの距離を詰めてくる。

「捕まえた」

 そう言う彼女の手元には、先ほど翼持ちに投げつけた漫画雑誌が握られていた。

「とりあえず、糸で私に固定するから、舌を噛まないようにね」

 左腕に黒い糸が編み上がり、そこから出された糸が俺に絡みつく。固定というから彼女の身体に直接縛り付ける倒錯的な絵面を想像していたのだが、実態は買い物袋を持つような感じだった。これは固定と言えるのだろうか。先ほどまで地面に背を向けていたのに今度は頭が下になり、否応なく近づく地面が見えてくる。
 俺は、これが遺言になるかもしれないと思いながら叫んだ。

「これ、雑誌投げたのメチャクチャ怒ってます!?」
「じゃあ舌を噛まないようにー」

 渾身の遺言が受け流されると共に、叩きつけられる風の向きが変わる。気づけば身体は鉄骨組みの外に放り出され、上へと向けて撃ち出されていた。そう確信したのは、視界の横を走る鉄骨が信じられない速度で下に流れていくからだ。瞬く間に、鉄骨組みの頂点まで到達した。ぶら下がっていた形の俺は、勢いのまま彼女より上空に放り出される。頂上にいた敵方は何か話し合うように集まっており、全員の顔が彼女のほうに向いていた。微妙に見える表情からは困惑が見て取れる。それもそうだ。彼女は身体の大部分を糸へと変じさせていたのだから。
 また急激に風の向きが変わる。異次元の駆動を見せる彼女は中空で身体を捻ると、

「純粋な物理法則と常識の勝利ー!」

 意味不明な言葉を叫んで、四人が思い切り吹き飛んだ。翼持ち以外が抵抗する間もなく鉄骨から叩き落され、翼持ちも出っ張った鉄骨に縛りつけられ身動きを封じられる。やがて降り立った彼女は既に人の形を取り戻し、追加の糸を翼持ちの口に巻きつけていた。服装は徐々に戻っていくが、縛りつけたぶんを消費したのかジャケットの生成はされておらず、ワイシャツ姿だ。
 それを見てつくづく思う。

「これのどこが常識なんですか……? 純粋な物理法則とは……?」
「無粋なこと言うなぁ。いいでしょ別に、決め台詞はカッコよくないと」

 カッコいいか……?
 疑問を浮かべる横で、鉄骨の下を覗き込んでいた彼女が立ち上がり、こちらに雑誌を手渡してきた。渡しながら、彼女は初めて申し訳なさそうに微笑む。

「こっちの面倒事に巻き込んじゃってゴメンね。しんどかった?」
「そりゃあ……。荒事なんて人生で一回も経験したことないですからね」

 間断なくやってくる恐怖体験は、もう二度と味わいたくない。
 その思いが顔に出ていたのか、彼女の表情にある申し訳なさが少し深くなる。

「今度はファミレスで奢らせて。流石にそれでチャラになるとは思ってないけど」
「大丈夫ですよ」
「子供は大人に奢られるものさー」

 そうは言うが、魔鉄人形としての彼女は一体何歳なのだろうか。見た目は歳上に見えるが、場合によっては歳下かもしれない。ただ、なんとなく聞くのが怖かった。

「んじゃ、次は下の人かな」

 腕を曲げ伸ばし、手のひらの根本から出した糸を鉄骨に巻きつけた彼女は、空いた手で翼持ちを指差す。

「その人は羽ばたくことがトリガーになってるっぽいから、今ので封じられてると思う。すぐ終わるから待っててねー」

 言うと、躊躇いなく飛び降りていってしまった。手持ち無沙汰になったが渡すはずの雑誌を開いて読むわけにもいかず、意味もなく視線をさまよわせる。
 縛り上げられた彼と目が合った。

「……どうも」

 会釈をしたが、身動きが取れない彼は視線を鋭くするだけだ。大変、居心地が悪い。
 早く戻ってきてほしいという思いが届いたのか、糸を巻き上げながら彼女が戻ってきた。その顔は何故か不満げだ。

「下の人たち、縛ってあった。腕に手錠かかってたし、恐らくはオリジナルかな。見てたなら助けてほしかったんだけどなー」

 そういう彼女は鉄骨に寝転がると、夜空――より正確にはそれを見ることを阻む純白の板――に手を伸ばす。

「これも跳板さんだよねぇ。こういう大掛かりなの時たまやるんだよ。なんのためにやってんだろ」
「今回のは、お前の不手際を隠蔽するためだよ」

 予想していなかった返答がきて、周囲を見回す。仰向けのままの彼女が上を指差し、視線を上向けると、空中に浮かぶ魔女を背負った製鉄師がいた。

「大丈夫そうか?」
「跳板さん、おそーい!」

 両手を振り上げてわかりやすい怒りの表現をする彼女に、階段を降りるようにしてこちらに近づいてきた跳板さんは苦笑を浮かべる。

「使いっ走りにするのは勘弁してほしいなぁ。そういうのは理事長だけで十分なんだよ」
「いやー、跳板さん便利だからついねー。下にいた人縛ったのって跳板さん?」
「いや、メイナさん。メイナさん経由で署内の融通利く部署にも連絡が飛んだはずだから、じきにくるはず」

 そう言われた彼女は、一度視線を地面に向けると、すぐに戻す。そこには確か、縛り上げられていた三名の敵がいたはずだ。

「多分、手錠かかってるから他の個体もきたよね? 早くしてって伝えといてー」
「お前の落ち度で他諸々に迷惑かけてるんでしょうが。聞いたぞー事故を防いだって。その行動は偉いけど悪目立ちすると今回みたいになるから、今度から上手くやれよ」
「はーい」

 元気よく返した彼女に、空中を歩く跳板さんは薄く笑う。その視線が不意にこちらに向いた。近所の子供を見るような、そんな柔らかい視線を感じる。

「んで、そちらさんが巻き込まれた一般人くんかぁ」

 跳板さんがこちらに水を向けてきた。問いかけに答えようと口を開いたところで、鋭く立ち上がった彼女がこちらを手で制してくる。

「大丈夫だから」

 それはどちらに向けた発言かはわからない。
 ただ、先ほどまで敵襲にも能天気にしていた彼女が、考えられないほど緊迫した顔で跳板さんを睨んでいた。対して、跳板さんは呑気な顔をしている。

「保証はあるのかな?」
「私のことお嫁さんにしたいらしいし大丈夫だと思うけど」
「ちょっと待って下さい結婚するなら魔鉄人形って話を拡大解釈しすぎでは!?」

 思わず反論したが、于神依ゆかむいさんには無視され、跳板さんには小さく笑われた。

「ならいいか。メイナさんに今度会うときは覚悟しときな。こってり絞られるだろうから」
「ぐえーっ、だから連絡したくなかったんだよなぁ」

 いつもの能天気な声を上げた彼女は、脱力して鉄骨の上に座り込んだ。頭を抱える彼女にホッとしていると、その姿勢のまま彼女がこちらに視線を向けた。

「雑誌、大丈夫そう?」

 言われパラパラとめくってみるが、特に問題なさそうだ。アクリルキーホルダーも包装から出ておらず、傷一つない。

「大丈夫そうです。ホントに漫画好きなんですね」
「その雑誌は鉄暦からずっと刊行している老舗だしねー。今月号まだ買えてなかったけど」

 なんだ、やっぱり知ってたのか。それならちょうどいい。

「良かったら差し上げます」
「え、いいよ別に!」

 立ち上がって遠慮の手振りをする彼女に近づき、無理やり持たせる。それでも納得してなさそうだったので、恥ずかしいが内情を話そうと心に決めた。

「元々、漫画はあまり買わないんですが、于神依さんと話して興味を持って。話のネタになればなぁ、と思って買っただけなんですよ。なんかアクリルキーホルダーもついてて、良かったらこれも差し上げたかったんですが……」

 最後のほうで、彼女の目の色が変わった。

「え!? アクキー!?」

 彼女は手に持たされた雑誌を恐る恐るめくり、今まで見たことないほど目を輝かせた。

「え!? これ限定特典のアクキーだよ!? これくれるの!? ありがとぉ~!!」

 予想以上の喜びようにビックリする。

「喜んでいただけたようで何よりです……」
「んふふー、私のツボを分かってるね。これスパイダーマンの公式スピンオフのアクキーなんだよ。特典付きは極小部数だから探さないとなーって思ってたから本当にありがとう」

 今までの悪童のような笑みではなく純粋な子供のような笑みを浮かべる彼女に、こちらも嬉しくなる。

「最高のプレゼントありがとう! 本を粗末にしたことは許さないけど!」

 純粋な笑顔で言われると余計に怖い。

「まぁ、でも相互不理解による悲しい事故でもあるし、まずは君のことを色々と教えてよ。私のことも色々と教えるからさ」
「そうですね。まだ鉄暦漫画しか好きなものを知らないので、色々と教えてください」
「私に関しては割りとそれだけだけどね」
「えぇ……」

 出鼻を挫かれて呆然とした声しか出せない。
 そんな俺を見て、彼女は笑った。

「そういえば、名前聞いてなかったね」
萌葱もえぎ鋼一こういちです。よろしくお願いします于神依さん」
「ふみでいいのにー。よろしくね、鋼一くん」

 悪童のような笑みで、彼女が手を差し出してくる。
 その手を握る。再現された人肌の温かみを感じながら、俺も笑みを返した。