Vasinal Novel

喉からなんか甘い声が出る鉄脈術(仮称)

 それは昼下がりの異変だった。

「それで、だーりん♡がね……」
「はにー♡がねー」

 聖刀学園のベンチで談笑していた無名異むみょういまどか弓削ゆげ御伽おとぎは、自分の喉から発せられた普段では考えられないような甘い声に、思わず押し黙る。

「だーりん♡が」
「……はにー♡が」

 再びの沈黙。

「えっ、なに今の!?」
「言おうとした言葉が、勝手に変換された?」

 驚く望の横で、相変わらずの無表情で御伽は首を傾げる。

「ちなみに、なんて言おうとした? スマホに書いて教えてほしいー」
「えーっと……」

 それぞれメモ帳アプリを立ち上げ、『乾くん』『あのクソ姉』という文字を見せ合う。

「すごい変換のされ方だね……。あのクソ姉なんて……」
「おぉ、もしかして私は乾くんって言える? 言えた。はにー♡」

 また沈黙が場を支配した。
 いや、厳密には望が笑いをこらえている。

「相方のことは言えないらしいー」
「御伽さん、真顔で突然それ言うの卑怯じゃない? 裏の意味がわかるぶん面白すぎるんだけど……」
「はにー♡」

 今度こそ耐えきれずに望が吹き出した。
 御伽は、彼女の大笑いが収まるまで待ってから、口を開く。

「状況を整理するよー。今、私たちは相方の名前が言えない状況にある。これは何らかの鉄脈術の可能性が高い。だからまず、効果範囲を調べる必要がある。おそらくは聖刀学園だけだと思うけど、念の為」
「わかった。知り合いに片っ端から連絡かける? 暗音さ……は違うや。考えてみたら僕の知り合いに学外の製鉄師ってほとんどいないかも。アマツマラ関係者で他に製鉄師っていたっけ?」
「いない。だからSNSで調べる。私はハニーで、望ちゃんはダーリンで調べて」
「わかった!」

 二人でベンチに座ったまま、しばらく検索作業に集中する。その結果として、この事象が少なくとも聖玉学園のある地域でも発生していることが確認できた。つまり、この鉄脈術は関東近縁から近畿まで伸びる長大な鉄脈術の可能性が高い。
 不明なのが目的だ。

「テロ?」
「……いや、トンチキイベント?」
「御伽さん??」

 突然のメタ発言はさておき、目的は不明だが既に術は発動されている。規模が規模である以上、プロの領分だ。こちらとしては、万が一にでも呼集があれば対応する心構えくらいだろう。

「しかし、これは問題」
「そう? 言わなければいいんじゃないの?」
「相方のことなんて、無意識に呼ぶもの。そうなると、この褥で出すような声が相手に聞かれることになる」
「妙に具体的な例はやめて」
「……でも大丈夫。周りで他の人の状況を見たら調べるはず。SNSはその話題で持ちきり」

 その返答に、望は嫌な予感に襲われた。
 この状況を理解するには、SNSが不可欠。だが、彼女の相方はそれができない。
 理由は単純だ。

「あの、だーりん♡はスマホ持ってないし、SNSが嫌いだから……」
「あー、事実の確認ができない。ご愁傷さま」
「諦めるの早くない?」

 そのとき、ちょうど予鈴が鳴った。
 一緒にきて説明してほしいと縋りつく望と、他学年だからと申し訳なさそうに断る御伽の攻防が数秒あって、望は泣く泣く教室へと足を向ける。

「あっ」
「あ、いた」

 道中、最も会いたくない人と出くわした。望の契約者、いぬいけいだ。

「今日の戦技科棟、妙に騒がしい気がする。気のせい?」
「どうだろうね~! あはは!!」

 とりあえず笑ってごまかす。
 望と継は、まだ確たる信頼関係を築けているわけではない。彼の目的を達成するために、彼女は彼の過酷な世界を受け入れたに過ぎない。これから関係性を築いていく段階なのに、いきなり『だーりん♡』なんて言った日にはすべてが終わる。望の心も間違いなく終わる。
 それだけは避けなければならないと、望は教室まで彼と口を利かないことにした。教室まで辿り着けば、騒いでいる他の契約者から漏れ聞こえる形で、彼女が黙っている理由が推測できるはずだ。

「無名異さん?」

 無言を貫く。とにかく足早に行こうと思ったが、彼の歩幅は以前の癖で小さめなので、いつも通りの歩速だ。それでも教室は近づいている。

「無名異、さん?」

 無言を貫く。あと少し我慢すれば、教室に辿り着けば、真相がわかって黙っていることも理解してくれると信じている。
 横を歩く継の顔は不安げだ。

「私が何か、機嫌を損ねるようなことをしました?」
「違っ、だーりん♡は何も悪くなくて……!!」

 望は、空気が死んだことを理解した。彼女の目の前で状況が理解できずに彼が固まっている。彼女の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

「うわああああああああああああ、終わったああああああああああああああ!!!!!」

 彼女は教室まで全力疾走し、そこには固まったままの継だけが残された。