Vasinal Novel

『旧版:ユア・ブラッド・マイン―草創の双槌―』シリーズ

槌の音が鳴り響く場所へ

 波が船体を叩く音が、不規則に聞こえてくる。甲板の柵に腕を乗せ、月明かりが伸びる水面を見下ろした。伸びた白は絶え間なく波の黒に引き千切られ、そしてまた繋がる。どこか神秘的な光景に、七紫は刃紋を幻視した。

「真鉄は元気でやっているだろうか……」

 紫衣から頻繁に送られてくる手紙からそれはわかっているのだが、どうにも心配だ。結局、七紫が旅立ってから一年と経たぬうちに、彼女が世話を買って出たそうだが。あの素晴らしき鍛刀狂いは、放っておけば飢え死ぬまで鍛刀をしていること請け合いなので、いくらここぞというときにやたらと押しが強い紫衣とはいえ、難儀しているのではないだろうか。

「いや、紫衣なら問題あるまい」

 むしろ、彼女の世話で彼の集中力が途切れていないかが心配だ。

「親父、なにやってんの? 死ぬの?」

 聞き慣れた酷い言い草に、視線を甲板へと向ける。月明かりを照り返す艷やかな黒髪を束ねた青年が、腰に手を当てわかりやすく呆れを表す体勢をしていた。大方、部屋にいないのを見て探していたのだろう。
 紫銅と、そう名づけた愛息だ。

「死ぬわけなかろうが馬鹿息子が。吾輩には本国に戻って魔鉄鍛造のすべを広げ伝える勅命を負っているのだぞ? それが無くとも死ぬなど、とてももったいなくてできる気がせん」
「いやマジレスしなくていいから」
「よくそんな死語を知っているな」

 七紫が適当に受け流したのを見て取ると、ため息を吐いた紫銅が彼へと歩み寄り、同じように柵に腕を乗せた。

「また真鉄さんのこと? 母さんをあまり嫉妬させるなよ」
「まるで吾輩が浮気をしているようではないか」
「毎日のように楽しそうに長々と語ってたら、そりゃもう浮気みたいなもんでしょ」

 そうなのか。

「そういうものなのだろうか」
「そういうもんなんですよ。はいじゃあ、ご老体は部屋に戻りましょうねぇ」

 そう言うと、紫銅は七紫の背中を押して強引に船内へと入らせようとする。七紫は足を突っ張って対抗した。体格差も相まって、びくとも動かない。後ろを振り向いてドヤ顔をしたら、とても悔しそうな表情が返ってきた。

「ご老体とは心外な。吾輩は八十を超えても壮健である自信があるぞ?」
「その自信はどっからくるの」

 無言で胸先に指を突き立てた。
 無視された。

「あの、動いてくれません? もう日を跨いでるからね? 俺も寝たいの」

 背中をグイグイ押しながら、控えめに愛息が懇願してくる。
 いい加減に可哀想になってきたので、彼の促しに応じて船内へと入っていく。横並びになった彼は、少し見上げながら不満そうな表情を浮かべていた。要望に答えたのに、まだ何かあるのだろうか。

「だいたい、なんで船旅の必要があるんだよ。紫黒も紫葉も船酔いして大変だったんだぞ」
「行きの船旅で見た水面が綺麗でなぁ。帰りも船旅がよかった」
「本音は?」
「……それだけだが?」
「飛行機の座席がなかったとかじゃないのかよ!?」
「強いて言うなら、夫婦と核家族に囲まれた独身が不憫でなぁ」
「いや一組でも充分しんどいでしょ」
「いやまったくだ」

 まるで悪童のように笑い飛ばす父親に、息子は苦笑いを浮かべ、そして真面目な表情を作った。

「帰国したら真鉄さんのところ行くの?」
「いや、まずはご報告をせねば。無論、その後には真鉄に技術を伝えるがな。それから国内を回って技術を広める。長い旅程となるだろう」

 その言葉に、紫銅はまた苦笑いを浮かべる。

「いやー、これから大変だね。なんせ、これから文明を進めることになるんだから」
「それはそうだとも。もちろんお前や桔梗にも手伝ってもらうが、それでも到底手が足らんだろうなぁ」

 遠くを見つめるように視線を上向ける。その先にあるのは船内の簡素な壁のみ。だが七紫には、そんなものなど見えていない。まだ見ぬ未来、日本の文明を魔鉄文明へと塗り替える未来しか見えていなかった。

「だからこそ燃えるというもの。技術を広め、その技術を有用に深化させ、果てに文明を更新する。『技術の拡散者』たる吾輩の存在意義を、日本の遍く全てで発揮することができる。これを幸せと言わずしてなんと言おう」

 獣のように口角をつり上げ、横並びの彼はその凄烈さに息を呑む。
 しかしその顔も、また無害な悪童のものに打って変わった。

「真鉄も待ちわびていることだろう。あいつは二十五年も前から、この技術を恃みとしていた。その期待に応えねばなるまい」

 より正確には、手紙で今までの経験は話しているし、教導官の御業をありのままに手紙に記している。だが、逆に言えばそれだけだ。流石にそれでは資料が足らない。紫衣からの手紙にも、鍛刀しては投げ捨てていると書かれていた。
 それでも鍛刀と書かれている以上、刀の形状はできているのだろう。倒木の如き鉄塊を鍛造した七紫とは比ぶべくもない。流石は真鉄だ。

「ホントに、真鉄さんが関わるといい顔するよなー、親父」
「そうか?」
「そうだよ。前々から話は聞いてたし、俺も真鉄さんとは会ってみたいな……」
「楽しみにしておけ。やつは技術深化の体現者。必ず紫銅も目をみはるはずだ」

 ちょうどそこで部屋に到着したので、コッソリと中に入る。和風の客室で、珍しい布団敷き。紫葉が紫黒を蹴飛ばして、布団の縁から頭が落ちた紫黒がうんうん唸っていた。戻しておいてもまた蹴飛ばされるのがオチなので、これは放っておこう。対して妻は身動ぎもせず眠っている。ツタンカーメンの仮面でもかぶせておけばミイラと言って息子たちの笑いが取れそうだが、当の仮面が手元にないからやめておく。
 ふと風を感じて奥の襖を見やると、半開きのそこから開け放たれた窓が見えた。このままでは風邪を引いてしまうので、紫銅に先に寝るよう仕草で合図し、そっと襖を開けて窓を閉めに行く。
 閉めようとする直前、またも月明かりに照らされる海面が視界に捉えられた。やはり刃紋のようで美しい。
 そういえば。帰国したら技術伝授の次に、長男がお前のファンだということも、言わねばならないだろう。
 そう思い、窓を閉める。
 刃紋はもう、見えなくなった。



 船が横浜港についたときには、それからすでに数日が経過していた。船の降りる場所にそこを選んだのは、陛下に上奏して、そのまま帰路につけるようにだ。
 陛下への報告を経て、帰路についたのはおよそ二週間後だった。妻は紫銅たちと一緒に皇都観光などをしていたらしく、今は疲れて寝ている。
 それにしても、改めて乗ってみると新幹線が遅いことこの上ない。帝国で乗った鉄道はこれの比ではなかった。やはり、魔鉄文明へとこの国を更新しなければ、この国は近いうちに窮してしまうだろう。
 それに、今は世界情勢が激変期を迎えている。帝国は一年ほど前に首都が炎上崩壊、皇帝ラバルナを始めとする多くの人々が亡くなり、帝国は実質的に崩壊した。今は後釜争いのために各国が慌ただしく牙を研いでいる。それに少しでも遅れれば、あっという間に喉元を噛み千切られるだろう。
 七紫が魔鉄鍛造について広め、群青と暗音が製鉄師や魔女について教えを授けていく。ラバルナで直接教えを身に着けた人数はこちらが劣るが、幸いにも魔鉄器を工業的に製造しようという男がいるらしい。そいつと話してみるのもいいだろう。それに、こちらは妻と長男が魔鉄加工技師だ。二人の助力を仰げば、不可能は何もない。
 これから、ニヤけてしまいそうなほど忙しくなるだろう。

「あぁ、楽しみだ」

 ゆっくりと通り過ぎる風景を眺めながら、思いが口を突く。
 長らく見ていなかった浅間山が、視界の端に捉えられていた。



「おかえりなさいませ、お兄様」

 故郷の駅の改札前で、見たことがない女性が七紫に一礼した。高価そうな着物を着た、白髪交じりの女性だった。
 いや、見たことがないという言葉は間違っていた。正確には、年経たせいでわからなかったのだ。

「紫衣、で合っているか?」
「えぇ。お久しぶりです、七紫お兄様」
「この歳で『お兄様』はこそばゆいな。もっと適当な呼び方があるだろうに」
「いえ、私からすればお兄様はいつまでもお兄様です」

 ふふ、と淑やかに笑う姿は、二十五年前に見慣れていたものだった。間違いなく七紫の実の妹、熟練の刀装技師でもある無名異紫衣だ。

「老けたな」

 そうつぶやいた瞬間、七紫は背中を思いっきりぶっ叩かれた。

「女性にそういうこと言うなんて無神経じゃないの!」
「い、痛いのだが、桔梗……」
「相応の報い」

 振り向けば、金髪の女性が据わった瞳でこちらを見ていた。暗に『私に言ったらどうなるかわかってるか?』と言われている気がして、ちょっと背筋が寒くなる。彼女の造る魔鉄器は痛いのだ。
 桔梗は、七紫の頭をグイーッと下げようと試みながら、困ったような笑みで紫衣を見た。

「ごめんなさい妹さん」
「いえ、寄る年波には勝てないのは自明のことですから」
「だが変わらず美しいなと言おうと思ったのに、あれだけではただの暴言ではないか……」

 背中を擦りながら文句を言うと、紫衣と桔梗は呆気にとられたような表情を浮かべ、次いで揃って笑い始めた。不貞腐れたようにそっぽを向くと、紫銅がなぜかサムズアップしている。なんだその笑みは。
 ひとしきり笑った桔梗が、七紫の背中を擦りながら、笑いすぎで出た涙を拭う。

「いやごめんごめん。そういえば貴方ってそういう人だったわ。……妹さん、コイツのプロポーズの話、聞きたい?」
「紫衣で構いませんよ、桔梗さん。あと、そのお話、とても興味があるので車の中でじっくりと聞かせてください」
「勘弁してくれないか、本当に……」

 帰路で繰り広げられるであろう地獄絵図を想像して、七紫は早くも気が滅入っていた。子供たちにもそういった話を聞かせたことがなかったので、さぞ期待しているだろうと視線を向ける。紫銅がまたサムズアップしていた。今度は紫葉も紫黒も同じようなポーズをしている。だからなんだその笑みは。

「親父の滅多に見られない弱り顔見られたので、今日はよく眠れそうです」
「ですー」
「でーす」
「お前たち、そこに並べ。はっ倒してくれる」

 わかりやすく威嚇のポーズを取ると、同じくわかりやすく悲鳴を上げた子供たちが、桔梗や紫衣の背中へと逃亡した。
 その様子を見ていた紫衣が、淑やかに笑みをこぼす。

「楽しいご家族ですね」
「えぇ、まったく」

 紫衣の言葉に、桔梗が応ずる。背中に隠れた紫葉を優しく引き剥がしながら、紫衣は出口へと促した。

「では、続きは移動しながらにしましょうか」
「そうですね。紫銅、紫葉、紫黒。あと貴方。行くよ!」
「はーい!」
「はいー」
「はーい」

 子供たちが、元気よく返事をして紫衣のあとについていく。紫銅は十七歳なのだが、そうとは思えない素直さだ。

「ほら、ついでに貴方も行くよ」
「……吾輩はおまけか?」

 七紫の不満げな声に、彼女は舌を出して笑う。いくつになっても、その笑顔は可愛らしい。

「何いってんの。特別扱いよ」

 紫衣に案内され、駐車場の端に置かれたミニバンへと乗り込む。桔梗や紫銅たちは後部座席に座り、紫衣は運転席、七紫は助手席に座った。七紫はこのあとの展開を考えて、あらかじめ視線を外に逃がしておく。いつでも現実逃避ができる体勢だ。
 予想通り、移動中は七紫にとって地獄絵図になった。告白からプロポーズまでの話が詳らかに話され、それを紫衣は運転しながら、子供たちは身を乗り出して聞き入っている。なんでそんなことまで覚えているんだという話まで飛び出したときは、思わず車外の風景に逃避してしまった。昔に贈ったネックレスなど見せびらかさないでほしい。嬉しいが恥ずかしい。

「これ、アイツが自分で鍛造して寄越してくれた魔鉄のネックレス」
「なるほど……。ちょっと不格好ですね」
「それがまたいいのよー」

 あぁ、なぜか翼がほしくなってきた。そういう魔鉄器はないものだろうか。
 なんとか話題を変えねばなるまい。七紫は視線を車内に戻し、話題になりそうなものを探そうとして、紫衣の左手薬指に目が止まった。先ほどは気付かなかったが、そこには銀色の指輪がはまっていた。宝石も取り付けられていないシンプルなもので、見たところ魔鉄製でもなさそうだ。

「結婚していたのか、紫衣」
「えぇ、十年以上前に」

 そんなことは手紙には一言も書いていなかった。そんなに書きづらいことだったのだろうか。

「……そういえば、結婚後は真鉄の世話は誰がやったのだ? 手紙ではそこについては触れられていなかったが」
「結婚後も変わらず私がやっておりました」

 なんと。寛容な夫もいたものだ。別の男へのかかりっきりを許すなど。

「夫は許してくれたのか?」
「えぇ。今までと何も変わりませんでしたし」

 おかしい。何か食い違っている気がする。
 七紫は訝しんだ。

「ちなみに、結婚相手はどんな人間なのだ? 一度、兄として挨拶しておきたい」
「どんな人間も何も、真鉄さんですよ。帰宅後にお会いすればよろしいかと」

 真鉄? 真鉄と紫衣が、結婚……? ……?
 思考が追いつかず、思わず固まる。体感として十分くらいは固まっていただろう。やっと思考が追いつき、その思考を逃がすかのように口が開く。

「なぁあああああにぃいいいいいい!?!?!?」

 思わず出た大音声に、車内にいた全員が耳をふさいだ。紫衣だけは運転中のため左耳を押さえて、右側に身体を逃している。そんな体勢でも、運転に乱れがないのだから流石だ。

「お兄様、あまりビックリさせないでください! 運転を誤ったらどうするんですか!?」
「いやそんなことはどうでもいい!! 紫衣、お前、真鉄と結婚したのか!?!?」
「え、えぇ。そんなに驚くことですか……?」

 自分で思いを伝えられないばかりに、紫衣を幻視するOWという拗らせ童貞みたいなことになっていた真鉄が、知らぬ間に結ばれていたことに驚かないはずがない。
 そもそも、そんなことはありえない。ありえないのだ。鍛刀に人生を捧げた彼が、鍛刀以外のことをするなど。そんなことは、ありえてはならない。

「まぁ、そういうことか。承知した。帰ったら真っ先に真鉄のところだ」
「お兄様、もしかして怒っていらっしゃいますか?」
「今なら、声だけで人を気絶させることができる気がする」
「やめてくださいね?」

 強めに念を押す彼女の言葉を無視して、車外に視線を移す。遠くの山々を見ながら、ふと思った。

「そういえば、まだ真鉄はあの山で暮らしているのか」
「えぇ。少し前まで私も一緒に住んでいましたが、現在は一人で」
「一緒に住んで……!? いや、そこはいいが、なぜまた一人暮らしになったのだ?」
「『昔の生活に戻りたくなった』、と」
「そうか……」

 それは何よりだと、七紫は思う。しかし、彼女の寂しそうな横顔は、なんなのだろうか。

「なにかあったのか?」
「いえ別に? ただお父様がカンカンでした。山登りはもうできないので、文句を言いに行けないと私によく言っています。日中は、文句の代わりに鍛刀を」
「それはそれは。父上もご健在か。それは何より。母上は」
「足腰が悪くなってきたそうですが、まだ元気に台所に立っています。お母様は真鉄さんに目をかけていらっしゃったので、心配していました」
「昔から危なっかしいからなぁ、真鉄は」

 昔を思い出しながら、七紫は悪童のような笑みを浮かべる。
 ふとバックミラーを見ると、桔梗がバツの悪そうな表情で俯いていた。

「どうした桔梗」

 問いかけに、顔を上げた桔梗が、言いにくそうに口元を掻いた。

「いや、楽しくなってついつい色々と話しちゃったけど、貴方が居心地悪そうにしてたからさ。あんまり話してほしくなかったかなーと思って」

 それは車に乗る前に考えてほしかったところだが、まぁ言うまい。

「馴れ初めについて語られることは嬉しいことだ。……だがまぁ、気恥ずかしいから吾輩がいないときに話してくれると助かる」
「そっ、嬉しいんだ」

 はにかんだ彼女は、いつの間にか寝ていた子供たちに視線を向ける。
 どうやら機嫌は直ったようだ。
 と、ちょうどそのとき、紫衣が車体を減速させた。信号かと思ったが、住宅街の月極駐車場の前だった。いくらか変わっているとはいえ見慣れた家屋の並びに、到着したのだと理解する。起こされた子供たちは家の目の前についたのかと思ったらしいが、少し歩くと聞いて不満そうな声を上げていた。
 なぜ月極駐車場なのか。理由は簡単。七紫の家は昔ながらの造りのせいで、車庫がないのだ。



 真鉄と会うため、七紫は独り山肌を登っていた。家族は実家でくつろいでいる。紫衣も同じだ。とりあえず、紫衣との関係について小一時間問い詰めねばなるまい。
 山の中腹まで登ってくると、キーン、キーン、という懐かしい音が聞こえてくる。当然だが、二十五年前よりもさらに洗練された音だ。しかし、魔鉄鍛造には槌はいらないのだが、もしやまだ鉄刀を作っているのだろうか。
 登り続ける間、鍛造の音は絶え間なく等間隔に、あの日と変わらず続いている。やっと彼の鍛冶場に到着したとき、まずその場所の変化に目を疑った。まともな居住スペースが増築されている。前は鍛冶場と最低限の畳と布団が置かれた無造作なものだった。まさしく鍛刀さえできればいいという状態で、その意思に感心したものだ。
 四半世紀の隔たりは、人をこうも変えてしまうのか。大きな落胆を抱えながら、以前と変わらぬ鍛冶場の入り口をくぐる。
 鍛冶場の中央に、細身の作務衣姿がいた。年月には抗えなかったのか、髪にはいくらか白が混じり、横顔からは年月を感じさせる。

「七紫か」

 そういうと、彼はなぜか作業をやめ、立ち上がった。

「長旅ご苦労だった。今日がこちらに帰ってくる日と知って待ちわびていたぞ。疲れているだろう。茶でも飲むか?」
「待て、お前は本当に真鉄か?」

 真鉄は作業を途中でやめないし、客人を出迎えるなどありえない。
 その思いに反して、作務衣姿の壮年は首肯を返した。

「真鉄だ。流石の私も、四半世紀を費やして研鑽に明け暮れた男を出迎えぬほど外道ではない」
「そうか。正直、鍛冶場を見たときは変貌ぶりに危惧を覚えたが、義理堅さはあまり変わっていないようだな」

 数少ない変わらなさに少々の安堵を覚えながら、鍛冶場の隅に配置された机へと向かう真鉄を見る。机の上には、以前にはなかったコンロが置かれ、その上にはヤカンが鎮座ましましていた。その横に無造作に置かれたいくつかの湯呑は、客人用だろうか。つくづく、彼は変わってしまった。前には、その机は七紫が握り飯を置くだけの場所だったというのに。
 机の下にしまわれていた丸椅子を引き出し、真鉄が着座を促す。その促しに素直に応じながら、ふと思い出したことを口に出した。

「そうだ。明日あたりに息子に会わせても構わんか?」

 数秒固まった真鉄が、片方の湯呑をひっくり返し、自分用と思しき湯呑を持って対面に座る。机の縁からは、ひっくり返されたことでブチ撒けられた茶が滴っていたが、そんなものはお構いなしとばかりの所作だった。

「訂正だ。貴様に出す茶などない」
「おい」

 無視する真鉄は一息に呷ると、苛立たしげに湯呑を床へと置いた。

「かの大国の中枢でやったことが研鑽ではなく子孫繁栄などと知ったら、落胆するのも当然だろう」
「何を言う。研鑽したとも。それに、紫衣とちゃっかり結婚してるお前が言えた身ではあるまい」
「そうだなお義兄にい様」
「やめろ。それは本当にやめろ」

 怖気に粟立つ腕をさすりながら、七紫は口角を引きつらせる。
 反対に、真鉄は以前と変わらぬ無表情だった。

「それで七紫。要件はそれだけか? それだけならこちらも本題に入りたいのだが」
「いや、まだだ。真鉄がなぜ結婚したのか。それを聞いていない」

 その疑問を予想していたのか、躊躇いがちだが淀みない口調で、彼が答えを返す。

「後継を作ろうと、そう思ったのだ」
「後継を?」
「私の理想を完成させる、そういう後継を作ろうと思った。それに、鍛刀に行き詰まったとき、私は本当にこれでいいのかという迷いも生じた。そして、今に至る。先ほどはああ言ったが、貴様の行ないを非難する意図はなかった。『まさかお前もか』と、そう思って落胆したのだ」

 またも躊躇いがちに、真鉄は言葉を継いだ。

「その迷いから今に至る道行きが間違いとは、決して断ずることはできない。だが、『あるいは』という思いは、今もある。だからこうして、貴様が渡ったときと変わらぬ生活へと、戻ったのだ。我が身一つで、理想を完成させるために」

 真鉄の決然とした表情に、しかし七紫はかぶりを振る。

「いや、お前は変わったよ。二十五年前のお前なら到底やらなかったことを、ごく自然にやっている。吾輩としては落胆ものだが、それが真鉄の糧になっていることを、願ってやまん。……最後に聞きたいことなのだが」

 この話題は、ともすればデリケートなものだ。躊躇われるが、それ以上に気になっていた。

「子供はいるか?」
「……いや、いないな。それについては、あまり聞いてくれるな」
「そうか。それは失礼した」

 七紫は頭を下げ、真鉄は空になった湯呑を手に取る。

「それでは七紫。本題に移ろう。魔鉄鍛造の話だ」

 七紫が頭を上げたのを確認した真鉄は、立ち上がり湯呑を机の上に置く。
 次にその足が向かったのは、鍛冶場の奥だった。壁にいくつも立てかけてあるうちの一刀を手に取ると、丸椅子まで戻ってくる。

「貴様の眼で、これの確認を頼みたい」

 無造作に渡された刀を掴む。刀装は見事な打刀拵、おそらく紫衣のものだろう。しかし彼が見てほしいと言ったのは、言うまでもなく刀身のはず。
 慎重に抜き、目に飛び込んできた姿に、思わず手が止まる。
 美しい刀身だった。精緻な刃紋に計算しつくされた反り、刀身は澄み渡る湖面の如き輝きを放ち、しかしそこに誰かの気配も感じさせる。そこに、湖面に立つ紫衣の姿を垣間見た七紫は、彼が到着するより前に、既に真鉄が一つの領域を超えていたことを悟った。

「素晴らしい……。素晴らしいぞ真鉄……! それでこそ吾輩が信じた刀鍛冶! やってくれたなぁ!」

 その言葉を聞いた真鉄が、珍しく微笑んだ。

「先駆者からの賛美は、なんとも面映いものだな」

 刀身を収め、真鉄に手渡す。その刀を持ったまま丸椅子に腰掛けた彼は、目の前の『技術の拡散者』に視線を向ける。

「さて七紫、二十五年も研鑽してきたのだ。その知識を私に教えてくれるという約束、忘れてはいないな?」
「無論だとも! だが、これほどのものができているなら吾輩が教えることなぞ、なにもないと思うが?」
「買いかぶりすぎだ。貴様から、断片的な情報しかもらっていない」

 真鉄が、また笑う。しかしそれは、先ほどの穏やかな微笑みとは違っていた。
 それはかつて、初めてまともな鍛刀をしたときに見せた貪欲な笑み。『もっと高みへ』と希求する、技術深化の体現者としての笑みだった。
 それがまた見られるとは。なんといい日だ。

「すべて話せ。さらなる研鑽の種火としよう」