嫌いだけど、気になる人
- シェアードワールド参加作
- ユア・ブラッド・マイン
私には、嫌いな男性がいます。
受験勉強のために図書館へと向かおうとしていた私は今、自宅の塀の扉の前で、渋面を浮かべていました。出かける前に窓から見たのは、分厚く高い入道雲が真っ青な空を泳ぎ、暑さのせいか人影一つ見当たらない光景。そう、そのとき、私は自宅の塀の前で彼が待ち伏せていることに気づけなかったのです。
長身を屈めて隠れていた彼は、すっくと立ち上がると、いつもどおりのヘラヘラとした笑顔を浮かべています。なまじ顔の造形は整っているので、その笑みはどこか悪ガキめいたものにも見えましたが、それでも私にとっては気持ちが悪いものでした。
「おはよー、進道さん。奇遇だね」
「今さっきまで隠れていた人が、なにを言っているんですか? 一度、医者にかかられては?」
私の率直な感想に対して、彼は笑みを崩さず、特に反論もしてこようとはしませんでした。そんな彼を、私は嫌悪十割の視線で睨みつけます。
彼は、無名異紫銅さん。お父様は、かの魔鉄大国ラバルナ帝国へ技術留学をしたとてもすごい方で、お父様ともども魔鉄の加工技術を身に着けてこちらに帰ってきたのだとか。
ラバルナ帝国とは、ヒッタイト帝国の都だった場所から勃興し、加工不可能だった超常金属『魔鉄』の加工技術を一般化させ、そして全世界の統一に成功した巨大国家。数ヶ月前に、首都の炎上崩壊を皮切りに国としての形は失ってしまいましたが、ラバルナ帝国の色に染まったこの世界で、その威光が薄れることはないでしょう。
この人はそんな大国家の中枢で生まれ育って、そこでしか学べない技術を持ってきたわけです。そのせいか、調子に乗って方々にそれを自慢して回って疎まれているのだとか。ヘラヘラ笑いながら自慢されれば、鬱陶しいと思うのは当然でしょう。
というか、政府としては最重要人物のはずなのですが、なんでこんなに自由に動き回れるのでしょう。不思議でなりません。
「なんの用件ですか。用件がなければさっさとお帰りください」
しっしと手で払い彼に背を向けましたが、その程度でめげていたらこの人はストーカーやってません。
「どこ行くのどこ行くのー?」
彼はそう言いながら横をついてきました。風につられて、彼の頭頂で括った髪がゆらゆらと揺れています。暴力が許されるなら、その髪を思いっきり引っ張りたい。
だいたい、なんでこの人は今の今まで屈んで塀に隠れるということをやってこなかったのに、急にやってきたんですか。やっと学んだんですか。一生学ばないでいてほしかったです。
無性にイライラして、できる限りの威圧感を出して彼を睨みます。作務衣の襟を整えていた彼は、視線に気づいたのかダブルピースしてきました。ブッ叩いてやりましょうか?
「図書館です! もういいですか!」
実質的な降参宣言を聞いて、彼のヘラヘラとした笑みに喜びの色が上乗せされました。
「図書館かー。面白そうだね!」
「私は何も面白くありません……!」
さもついていくのが当然と言わんばかりの口ぶりに、思わず大きく、大きくため息を吐いてしまいます。
そして、せめてもの抵抗として彼に言葉を投げました。
「お願いですから、しゃべり倒して司書さんを怒らせないでくださいね。いつ顔なじみの方に怒られるかと考えながら勉強したくありませんから……」
図書館に入って早々、彼のキラキラとした眼差しに、せめてもの抵抗すら通用しない気がしてきました。ただ、それだけのために今日の勉強時間を捨てたくありません。図書館に自転車で通えれば彼を振り切れたかもしれませんが、如何せん専用駐輪場がいつも満杯なので、置き場所がないのです。
館内が快適なせいか、幸いにも空いてる席を探すのは難しい状況でした。私はあえて端っこの席、それも隣に荷物が置かれて座れない場所を選びましたが、ちょうど前の人が立ち去ってしまったせいで、そこに座られてしまいました。なんという不運。
「ねぇ、進道さん」
「図書館ではお静かに」
私の注意に珍しくなにも言わなかった彼は、適当に近くにあった本棚から一冊持ってきて読み始めました。その棚は児童書コーナーで、彼が手に取ったのは『にっぽんができるまで』という子供用の歴史本。確か、天孫家や天孫家を中心とする日本皇国の成り立ちについて書かれているはずです。
この日本皇国は、皇王『天孫』を頂点とする国家体制を敷いています。天孫が『三層世界論』における記録の世界、常人では到達することができない冥質界の生命体の血を引くと言われているためか、ラバルナ帝国とも比較的に親交がありました。
しかし、それでも超常金属『魔鉄』が普及することはなく、ラバルナ帝国が魔鉄による文明を築いている中、この国は鉄を基盤とする文明のまま、現在に至っています。そういう面で言えば、魔鉄を加工する技術を携えて帰ってきた無名異さんのお父様や無名異さんは、掛け値なしに『英雄』であり、手放しに称賛されて然るべき人たちなのです。
なのに、なんでこの人はこんなに残念なのでしょう。
思わずため息が漏れ、それと同時に無名異さんが顔を上げました。
「なに? 疲れてるの? なにかあった?」
「誰のせいでこんなに疲れていると思っているんですか……?」
イラッとして睨むと、大袈裟に怯えた無名異さんが、本で顔を隠しました。一挙手一投足がイラッとする人ですね……!
彼と出会ってからここ数ヶ月で、わかったことが一つあります。それは、彼がどんなことを言われようと私に引っついてくるということ。私が友達と出かけるときはその限りではありませんが、基本的に一人でどこかに出かけるときは、必ずと言っていいほどついてくるのです。ここ数ヶ月で基本的に無害であることはわかりましたが、だからといってストーカー行為を容認しているわけではありません。有害だと判断したら即座に通報です。
ふと無名異さんに視線を向けると、私との会話に満足したのか、あるいはそんなに絵本が面白いのか、ページを食い入るように見つめています。
図書館に相応しい沈黙が訪れました。しかし、彼といると一方的に話しかけられることが常なせいか、どうも落ち着きません。話しかけてこないのかな、と視線を彼へと向けましたが、彼は読書に夢中で、こちらの視線に気づいた様子はありませんでした。
これは確かにいいことなのですが、調子が狂います。いっそ、マシンガンのように話しかけてきて、それをスルーする展開のほうが精神的にありがたいのですが。
そこまで考えて、自らが馬鹿みたいな考えになっていることが恥ずかしくなりました。その考えを掻き消すために、トートバッグから参考書とノートと筆記用具を取り出します。今日は奇しくも日本史の参考書。最初のページをめくれば、天孫家の始まりとされる『天孫降臨』の話が書かれています。
そういえば、無名異さんのお父様は皇王の勅命によってラバルナに送られましたが、他にも二人、送られた方がいました。今までは魔鉄鍛造について踏み込んだ質問ばかりしてはぐらかされてきましたが、考えてみれば、ラバルナでの私生活といった単純な質問はしてこなかったような気がします。
思いつくと、だんだんとそれが気になってきてしまいました。静かにしろと言った手前したくはなかったのですが、我慢できずに、腕を伸ばして絵本の背表紙を指先で叩きます。
「無名異さん、質問なのですが。『セカンドオリジナル』の方は、どんなお人柄をされていたのですか? お会いしたことはあるんですよね?」
私からの問いかけに、珍しそうに彼は絵本から視線を外しました。
『セカンドオリジナル』。ラバルナ帝国外から招集され、魔鉄関連技術を学んだ人たちのことです。異能『鉄脈術』を操る製鉄師の教育を受けた『相浦群青』。『魔女』として、製鉄師とともに鉄脈術を操る術を修めた『黒崎暗音』。そして、魔鉄を自在に加工する『魔鉄加工技師』について教えを授かった『無名異七紫』。無名異七紫さんについてはもちろんのこと、彼の息子として他のセカンドオリジナルとも交流があったはず。なにか有益な話が聞けるかもしれません。
「あるというか、もう親戚のおじさんおばさんって感じだよね。群青おじさんは、なんというか青空みたいな人。暗音さんは、意地悪な独身」
「青空みたいな人というのも気になりますが、黒崎暗音さんだけやたら辛辣ですね? というか、黒崎暗音さんは相浦群青さんとご結婚されているとばかり思っていましたが」
「あぁ、もしかして、群青おじさんと暗音さんが契約してると思った? あ、契約って知ってるよね。製鉄師と魔女が契約しないと鉄脈術は使えないんだけど」
「それくらいは知っています」
鉄脈術は、製鉄師が見る『歪んだ世界』という異常な世界視を魔女に格納し、適宜引き出すことで発揮される異能。それに契約が不可欠なのは、一般市民である私でも知っていることです。
「相浦さんは他国の人と契約したよ。そして、その人と結婚してる。親父、地味にそこらへん気にしてたのか知らないけど、帰国するときに群青おじさん夫妻と暗音さんとは一緒に帰らなかったんだよね。核家族と夫婦に独身が挟まれたら可哀想だって」
「なんですかそれ」
逆に、夫妻と一人で向き合うほうがしんどくないですか。
「あれは笑ったよ。最初は、妹と一緒に話し相手になろうと思ってたのに、見事にご破算だ」
そう言って、彼は笑います。
粘着ストーカーですが、まともな一面もあるんですよね……。
その場面を思い浮かべているのか笑みを浮かべていた彼は、はたと気づいたように視線を上向けると、首を傾げました。
「ところで、さっき『静かにして』って言ってたよね? どうしてそっちから聞いてきたの?」
「それはですね……」
ラバルナ帝国での英雄たちの私生活が気になった、とは口が裂けても言えません。今後、それをダシにして話しかけてきそうです。
ただ、今のところ目的はまったく達していないので、もうちょっと聞きたい気持ちはありますが……。
「なんとなく、気になっただけです。こっちから言い出しておいて破ってごめんなさい。もう黙ります」
「あー、待って待って。今日は進道さんに一つ相談があるんだけど、聞いてくれる?」
「聞きません」
キッパリと断って、本を盾にして視界を遮ります。彼はしばらく黙っていましたが、やがて仕返しのようにこちらの本の背表紙を軽く叩いてきました。
「親父が近々、魔鉄加工技師集団を旗揚げするんだよ。名前を考えているんだけど、どうも決まらなくて。なんか案ないかな?」
私が結婚してくれないとかいうふざけた相談かと思いましたが、思いの外、私向きの相談のようです。これは少し、真面目に考えてみましょう。確か、日本神話の中に鍛冶にまつわる神格がいたはずです。
「そうですね……。天津麻羅はどうですか?」
「天津麻羅?」
「古事記に登場する鍛冶の神様、ないし鍛冶師の集団です。天孫降臨の際にも天津真浦と呼ばれて言及されていますし、天孫の子孫とされる天孫家と縁の深い方が旗揚げする集団の名前としては相応しいかと。他にも、同一視されている鍛冶神天目一箇などありますが、他にも教えましょうか? 今回だけの出血大サービスです」
「いや、いい。長くなりそうだし」
「ここは図書館ですし、探せば古事記も先代旧事本紀もありそうですね。確か、現代語訳されたものが出版されていたはずです」
「ねぇ、話聞いてた?」
聞いてます。それはそれとして本は持ってきます。
受付の横にある古い検索機から場所を探し、印刷された紙を頼りに五冊ほど手に取って席に戻ると、彼はどこからか持ってきた漫画を読んでいました。表紙を見ると、どうやら日本書紀のようです。
「こっちのほうが、わかりやすくない?」
「わかりやすいとは思いますけど、私、古事記って言いましたよね……?」
「あー、そうだっけ」
漫画を閉じた彼は、それを机の隅っこに合わせるようにして置き、いつもの笑みを浮かべます。本が落ちそうなので、そういう置き方はやめてほしいのですが。
「私の話、聞いてました……?」
「一応は聞いてたんだけど、よくわかんなくて……。でも、天津麻羅っていうのは聞いてたよ。いい名前だと思う」
それはフォローになってません。
「それにしても、天津麻羅って、なんかエロくない?」
「そうですか?」
「ほら。あまつ、まら、ってさ」
「あまつ、まら……まら……?」
あぁ、なるほど。
納得と同時に、反射的に机を叩いて立ち上がっていました。ひっくり返ったパイプ椅子がリノリウムとぶつかって、静かな室内に騒がしい音を響かせます。
「最っっっっっっっっ低ですね! ブッ叩きますよ?」
「もっかい言ってくれない?」
「ブッ叩きますよ?」
「そっちじゃなくて」
「館内では、お静かに」
突然の声に驚き視線を向けると、腰が少し曲がった老齢の司書さんが、渋い顔でこちらを見ていました。私が大声を上げたせいか、他の人もこちらを見たり、あるいはチラチラと覗き見ています。
「菫ちゃんはいつも物静かなのに、彼氏さんといると賑やかだねぇ。でも静かにお願いね」
渋い顔からいくらか表情を和らげた司書さんは、そう言うと踵を返して受付へと戻っていってしまいました。顔なじみに醜態を見られた恥ずかしさとか、図書館で騒いでしまった申し訳なさとか、こともあろうにこの粘着ストーカーを彼氏として見られていた怒りとか、諸々の感情で顔が真っ赤になっているのを自覚します。
しかし当の粘着ストーカーはというと、
「彼氏? 彼氏だって。いやこれすごい誤解を受けてるねー。なんでだろうねー」
「あ、な、た、の、せ、い、で、す、よ、ね?」
椅子を起こして座り、小声で一言一言を強調しながら、対面にいる彼のつま先に踵をぐりぐりと押し当てます。わざとらしく痛みに身体をくねらせて、それで余計に目立ってしまいました。一つ向こうの長机に座った勉強中の学生が「バカップル」と言ったのを、私は聞き逃しません。
「これ以上誤解されるのは御免です」
「あ、ちょっと」
机に積んだ本を持ち上げ、足早に返却に向かいます。私を追いかけようとした無名異さんは、手元の本に気づいて、別の場所へと急いで向かっていきました。
これで上手いこと逃げられればいいのですが、どうせ出口で出くわすことでしょう。
人生、諦めが肝心です。
結局、二時間くらいしか図書館にはいられませんでした。今までなんとかあしらってきたのに、今日に限って言葉を荒らげてしまうとは。行きづらくなったことを恨むしかありません。というか、あんな小学生レベルの発言をするとは思いませんでした。
ちなみに、今は隣に無名異さんはいません。どうも、本当に上手く逃げることができてしまったようです。
しかし、帰り道で先ほどの下ネタに文句を浴びせる予定だったので、手持ち無沙汰になってしまいました。外に出るときは彼といるか友達といるかだったので、なんというか、一人でいることに違和感があります。
「いてもイライラしますし、いなくてもイライラしますし。つくづくイライラさせる人ですね」
「進道さん語彙力死んでない?」
「ひゃわぁ!?」
驚いて後ろを振り向くと、夕日を背負った粘着ストーカーが立っていました。夜だったら秒で通報していたところです。
「いつの間にいたんですか……!」
「いや、ビックリさせようと思って先回りしたんだけど、進道さんがサッサと行っちゃうし、と思ったらとぼとぼ歩き出すし。気になっちゃって」
「傍からそう見えたんですか、私は……」
その醜態を、よりにもよってこのストーカーに見られたのがとても不快です。
無名異さんが横並びになろうと近づいてきたので、歩幅を広げて早く歩きます。それに合わせて彼も同じようにして早く歩き、それに対抗するように私が走って彼も走って、最後にはお互い力尽きて、手近な物陰で身体を休めることにしました。我ながら子供じみていますが、これが私たちの恒例です。
帰路の途中にある公園の木陰で無名異さんが身体を投げ出し、私はそれから少し離れたところに立ちます。木陰のギリギリですが、やむを得ません。
日が傾いているので昼間より日差しは強くありませんが、やはり生温い風が不快感を誘います。早く帰宅して冷房に当たりたいです。
「進道さん、暇だから話しよー」
「これから勉強をするので、話し相手にはなれません。木と話していてください」
「おお樹木よ、なんと逞しいその身体……じゃなくてね?」
おお、ノリツッコミが下手ですね。
「まぁ、いいです。それで、何の話をするんですか?」
「特に考えてない」
ブッ叩いてやりましょうか、この人。
「では、前から質問したかったのですが。無名異さんはどうして魔鉄加工技師に? やはり、無名異七紫さんの影響でしょうか」
「それもあるけどね。親父から真鉄さんの話を聞いてたのが大きかった」
「真鉄さん……?」
「揖宿真鉄さん。知らない? 刀鍛冶の」
「知りません」
「うっそでしょ……。地元ですら知られてないとかどれだけ仙人生活してるの……」
無名異さんが冗談抜きで驚愕の表情をしています。そんなにすごい人なら知っていそうなものですが。
無名異さんはしばらく、揖宿真鉄さんについて話してくれました。お父様の親友で、わずかな情報から魔鉄加工技術を習得した超人。四六時中鍛刀をして、今もお父様の指導の元、技術に磨きをかけているのだとか。すごい人だということはわかりましたが、年中山奥で鍛刀をしていると聞いて、知らないことに納得しました。
というか、あれだけはぐらかされたので、守秘義務があると思っていたのですが。そうではないのでしょうか。ジト目で聞いてみると「焦らすほうが面白いから」とかいうふざけた回答が返ってきました。なにもない部屋に一生閉じ込められてしまえ。
「そういえば、俺も前から進道さんに聞きたかったんだけどさ」
彼は私の顔を、より正確には黒ずんだ銀髪と、それと同じくらい黒ずんだ銀眼をまじまじと見つめます。
「進道さんって、将来的に製鉄師と契約したりしないの?」
「そんなつもりは毛頭ありませんよ。誰も、喜び勇んで人間兵器になりたいと思わないでしょう。私は教師になるという目標があるんです。そんなことで人生をふいにしたくありません」
「将来的に製鉄師の学校も作られると思うけど、それでも?」
「ええ。誰かのために命をかけるなんて、私には想像できない世界です。そういうのは、紙の上だけでお願いしたいところですね」
すげなく断り、ふと思い浮かんだ疑問をぶつけます。
「そういえば無名異さん、前から気になっていたんですが、ラバルナでは魔鉄鍛造以外にどんなことを学んだんですか?」
「いや、他にはなにも」
「は?」
耳を疑います。なにも?
「では、微分積分や三角関数は」
「あー、学校でやった気がするけど覚えてない」
「皇国の税制って知ってますか」
「知らないよそんなの」
「今の皇王はどなたかご存知ですか?」
「天孫……青仁さん!」
「『あめぬま』ではなく『あめみま』です」
そのあと、簡単な計算式から教えてみましたが、理数系は全滅でした。国語は割と得意だったのですが、社会科目もそれほど強くなさそうです。
「もしかして、本当に他になにもやっていないのですか?」
「家で物語は割と読んだけどねー。それ以外は特に。学校も割とサボってた」
絶望的です。基礎知識がまるでない。私はなにもない部屋に閉じ込められたら死ぬ自信がありますが、彼ならなんでもない風に過ごすかもしれません。
私と同い年なのに、これは決して許されることではありません。
「私が、すべて教えます」
「はい……? いや、進道さん、散々俺に『粘着ストーカー』とか言って嫌ってるけど、それでいいの……?」
「いいわけがないじゃないですか。貴方に勉強なんて教えたくないです。学校で習ったことをしっかり覚えておけと思ってます。でも、私が目が届くところで、知らないまま社会に出て困られるのがもっと嫌です。そういうのは気になるんですよ。あと、嫌っていると知っているなら、粘着ストーキングやめてください」
「それは無理な相談だなー」
「前から言ってますけど、迷惑ですからね?」
「カップル割で映画見られるって話は前したよね?」
「人間としての尊厳とカップル割を秤にかけたら、結果など自明でしょう」
「酷いなぁ。人間の尊厳ときたか」
ヘラヘラ笑いながら、彼は起き上がってなぜか一人で歩き始めてしまいました。珍しいこともあるものですね。
「そうと決まったら、時間があるうちに貴方のお父様にお願いをしにいかなければなりませんね」
「え、いや別にいいよ? 俺は俺で好きに会いに行くからさ。別に会いに来なくても」
振り向きながら着々と離れる無名異さんを追いかけ、ぐいと襟首を掴みます。
逃がしません。
「会いに行くんじゃありません! 基礎知識を教えに行くのです! はい復唱!」
「基礎知識を教えに行く!」
「よろしい。では、今週中にもそちらに行きますから。よろしくお願いしますね?」
結局、お願いをしに行く日は一週間もズレ込んでしまいました。なにせ、国の中枢レベルの人に『貴方の息子さんは馬鹿なので勉強を教えさせてください』と言いに行くわけです。いくら信条に反するからと言って、大言壮語しすぎました。今度からは、もっと考えてからしゃべることにします。
だいたい、粘着ストーカーに勉強を教える義理なんて本来ないんです。なんでこんなことで胃を痛めなければならないのでしょう。
そう考えていても、無名異家は目と鼻の先。覚悟が決まる前に、否応なく到着してしまいました。昔からこの土地で刀鍛冶をやっていた家系だからか、昔の時代を切り貼りしてきたかのような見事な日本家屋。隣には鍛刀するための工房もあります。重厚な木の門に取りつけられたインターホンが、嫌に目立っていました。
数回、息を整えます。あとちょっと死の覚悟をします。
何回も何回もやって、ようやく人差し指をインターホンに乗せることができました。
「遺書を作っておいたほうがよかったでしょうか……」
大言壮語を後悔しながら、指先に力を入れます。
ぴんぽーん、と。気の抜けた音のあとについてきたのは、身がすくむほどの静寂でした。
「斜向かいの進道菫と申します。あの、無名異さんは……」
いえ、これだと家の方全員に当てはまってしまいますね。
やむを得ません。
「紫銅さんは、いらっしゃいますか?」
インターホンからは返答がありません。もしや留守でしょうか。しかし、インターホンが切れた音は聞こえたのですが……。
「いやっほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!! 進道さんに名前で呼ばれたあああああああああああああああああ!!!!!!」
だいたい誰が出たのかは把握しました。ご近所迷惑なので黙ってほしいです。
ともあれ、これで無名異さんが出てくるのは確定。ひとまず、息を整える準備ができます。門の向こうではドタドタと慌ただしい音がしていましたが、やがて無名異さんらしき呻き声が聞こえて静かになりました。
少し遠くから、引き戸が開く軽やかな音がします。それと同時に、先ほどのテンションとは真反対の冷静な所作に、嫌な汗が背中を伝いました。
そして、その当たってほしくない予想は見事に的中。門をゆっくり開けた張本人は、二メートル近い巨躯を屈めて敷居を跨ぎました。無名異さんはこれほど大きくありません。日本人でも稀なこの体型を持っているのは、彼のお父様であり、日本に魔鉄鍛造を伝えた英雄、無名異七紫さんその人です。
私、死にましたね。
「君が進道さんか。紫銅から、お話はかねがね伺っている」
「さ、左様ですか……」
国の中枢レベルの人から名前を呼ばれて、思わず恐縮してしまいます。
無名異さんは、一体どういう話をしたのでしょう。怖いですが、不評ではないことを願いたいです。
「外は暑い。どうぞ中へ」
「はい、お邪魔します……」
無名異七紫さんに言われるがまま、応接間らしき広大な畳敷きに通されます。中央には巨木を縦切りにした天板を持つ長大な木机。床の間には、見たことがない達筆の掛け軸が掛けられていました。無名異七紫さん曰く自筆だそうで、その多才ぶりには感嘆するしかありません。
お手伝いさんがいるのかと思いましたが、無名異七紫さんはそのまま台所に麦茶を取りに行くと言って出ていってしまいました。広い畳敷きに一人座らされている私としては、たまったものじゃありません。国家的英雄にお茶汲みさせて座ってる私って何様ですか。とりあえず戻ってきたら平身低頭したほうがいいでしょうか。やはり遺書を書いたほうがよかったかもしれません。
ぐるぐると思考を巡らせていると、小さなお盆に麦茶が入ったガラスコップを二つ載せた無名異七紫さんが戻ってきました。平身低頭の姿勢を作ろうとする私に、彼は器用にお盆を片手に持ち直し、空いた手で私の姿勢を制します。そのままお盆を長机に置き、対面にどっかりと腰を下ろしました。私は机の長辺の中央に座るよう言われたので、必然的に距離は近くならざるを得ません。泣きそうです。
「そう構えずともいい。我が息子の友人だ」
「いえ、別に友人というわけでは……」
咄嗟に言いかけて口を押さえます。私の声が今にも消え入りそうなほど小さかったおかげか、無名異七紫さんには聞こえなかったようです。
「紫銅はやかましいから大人しく自室で待ってもらっている。あのテンションのまま行かれると、貴方を怯えさせてしまいそうだったからな。いやはや、残念な息子で申し訳ない」
「いえいえ、そんなことは……」
思わず、言いよどみます。残念なのは、なにも間違っていませんし……。
「そうですね。色々と残念なのは事実です」
思ったことを口に出すと、無名異七紫さんは驚いたように目を見開いて、すぐに豪快に笑いました。そのとき、自分がなにを言ったのかを悟り、血の気が引いていくのを自覚します。
「その、無礼な発言、申し訳ありません」
「いやいや。なかなか、周辺だと正直にそう言ってくれる人間はいなくてな。奴には『立場に驕ることなく研鑽せよ』と言い含めているが、それでも周りの形ばかりの称賛に浮かれているところがある」
笑みを収めた彼は、そこではたと気づいたように私の前にコップを置きました。私は恐縮して、ただ会釈するしかありません。
「技術を深めるものの敵は、己の驕りと周りの持ち上げだ。自分はすごいやつだと思ったら、そこで深めることをやめてしまうかもしれん。やめないにしても、その手は鈍る。それではいかんのだ」
「なるほど……」
「進道さん。これからも紫銅と接してやってはくれないか」
突然の申し出に困惑していると、彼が頬を掻きながら言葉を継ぎます。
「もちろん無理にとは言わんよ。息子が進道さんに付きまとっていることは吾輩も把握しているし、幾度となく注意している。だが奴は止まる気配がなくてな。『好きな人と話したいのは当然だろ!』と言って聞かん」
それはなんとも、容易に思い浮かぶ光景です。
「まぁ、それがどうしようもなく、昔を思い出してしまってな。こうしてお願いをしている次第だ」
「そういったご経験がおありなのですか?」
あまり、褒められた経験ではないと思いますが。
「あれほどしつこくはないがね。昔、吾輩は今の妻に出会って惚れて、それで変われた。ただ技術を見るのではなく、その技術を深める人を見ることができるようになった。つけあがるだけの紫 銅が、貴方との出会いで変われることを、少し期待しているのだ。我ながら、勝手だが」
「そうですね。確かに、勝手です。ですが、私も少し勝手を言いにきたので、なにも問題ありません」
「そういえば吾輩としたことが、用件を聞いていなかった。して、その『勝手』とは」
恐らく、この方は私が無名異さんの付きまといをやめるよう直談判しにきたのだと思っているのでしょう。でなければ、わざわざ接し続けることを頼んでくるわけがありません。私がもしその用件できたなら、権力を持つ彼の要求を飲まざるを得なかったでしょうが、今回は別件です。
「今回、私がこちらにお邪魔した理由ですが、無名異紫銅さんに、勉強を教えることをお許し願えないかと尋ねに参りました。あの人は魔鉄鍛造のみに知識が偏りすぎです。基礎知識も教えないといけません」
数秒、彼は呆気にとられた表情を浮かべました。やがて眉間にシワを寄せて難しい顔を作ると、覗き込むように頭を傾いで口を開きます。
「ふむ。理由を聞いてもいいかな?」
「貴方が、一意専心を大事にされていることは先刻承知です。ですが、一意専心の前に基礎知識が身についていなければ、一意専心もなにもありません。将来、色んなことに振り回され、一意専心などままならなくなるでしょう。それをなくすためのお願いです」
「なるほど、一理ある。それは願ってもない話だ。紫銅をしごいてやってくれ」
今度は私が呆気にとられる番でした。自分の息子を直球で馬鹿呼ばわりしているのですが、もしかして気づいてないんでしょうか。
「前から、もっと色々な教育をを受けさせるべきだったと思っていた。君に馬鹿だと思われても仕方ないくらい、やつはいい意味でも悪い意味でも馬鹿だ」
「随分な言いようですね」
「事実だからな。やつは、誰に憧れたのか魔鉄鍛造馬鹿だ。誠に腹立たしいが、とっくに私を超えて我が友のいる場所へと近づきつつある。名は知らんだろうが、揖宿真鉄という素晴らしき刀鍛冶と同じ場所だ」
確か無名異さんが超人と呼んで憧れていた人の名前。その人と同じように、彼もずっと魔鉄鍛造をしていたのでしょうか。
「だが同時に、やつが行き着く先を見たいという思いが先走って、ついつい甘やかしてしまった。学校の成績が悪いのも見逃した。だから今更だが、少し厳しくしてやろうと思っていたのだ。まさしく渡りに船。頼めるかな?」
「ええ、お任せください」
「謝礼は弾もう。あとで口座番号を教えてくれ。手渡しで構わないなら決まった日に渡す形としたい。どちらがいいかな?」
当然のように言い放つ彼にぎょっとして、慌てて首を横に振りました。
「あの、いえ、趣味みたいなものなので。お金は別に……」
「君の今までの一意専心に返せるものは、今は謝礼だけなのだ。受け取ってくれ」
「そ、そういうことで、あれば。手渡しで問題ないです……」
無名異七紫さんの圧力に負けて、渋々頷きます。
ちょうどそのとき、階段を下る足音が聞こえてきました。最初は足早に下りてきましたが、すぐに速度が落ち、最後には音も聞こえなくなります。
やがて居間に現れたのは、議論の俎上にいた無名異さんその人でした。
「あの、進道さん……?」
「今日から勉強を教えますから。よろしくお願いします」
「え、親父もしかして許可したのか? 冗談だよな?」
信じられないものを見るような目で無名異さんが言葉を漏らします。対する無名異七紫さんは、先ほどまでの穏やかな雰囲気とは打って変わった厳しい表情で彼を見ていました。
「冗談ではない。今まで、魔鉄鍛造に一意専心したことは、とても誇らしい。だが、そろそろ甘やかすのは終わりだ。どこかで諸々を教えてもらう機会を探していたが、お前は家庭教師は嫌だと言うしな。いい機会だろう。教えてもらうといい」
「え、一緒にいられるのは嬉しいけど、でも進道さんみたいな万年勉強やってるような勉強の鬼に教えられたら死んじゃう……。わかったボドゲ買おう。ボドゲは勉強になるから。ね、いいよね進道さん」
「それはダメです」
懇願を却下して、彼へと身体を向けます。彼はいつもみたいに大袈裟に怯えようとして、私の目を見て固まってしまいました。
おや、どうしてそんなに怯えているんですか?
「貴方に勉強を教えます。もう私が決めました」
どうせ、それでも彼は逃げるでしょう。自分が好きなことしかやってこなかったんです。いきなり、勉強をしろだの言ったら逃げるに決まってます。
だから、これはある種の意趣返しです。
「逃げるというなら、どこまでも追いかけて勉強させますよ。貴方が粘着ストーカーを続けるなら、私も粘着ストーカーになりますから!」