明日の朝日が昇る前に
何者かになりたい。そう願い続けて幾年が経っただろう。
車窓から覗く夕日は私の顔を照らし、手に持つ退部届を意味もなく明るく照らしている。
「また、ダメだったな」
思わず口から溢れた弱音を封じるように口を押さえるが、幸いにも周りは気にした風もなく、スマホを見つめて自分の世界に入っていた。画面を横向きにして楽しげなスーツ姿の男性や、険しい顔で画面を睨む女性。そんな彼らも、私が知らないところでは何者かになっているに違いないのだ。
この退部届は、私が何者かになろうとして失敗した証だ。別にその部活がやっていることに打ち込んでいたわけではない。でも、それをやったら何者かになれるかもしれないというあまりに浅はかな思いで、勢いのままに入部してしまった。そんなだから、当然ある下積みの時期すらとても耐えることができず、さりとて去る決意もできず、この紙切れを手に持ったまま今日を終えようとしている。
向かいの車窓には、だんだんとビルの明かりが目立つようになっている。その中で世界は何事もなく回っている。無性に取り残されているような気持ちになった。
何者かになる。それに明確なアンサーは出せていない。その漠然とした目標に対してどうやって辿り着いていいか未だにわからない。ただ、何かをすれば何者かになれるはずだ。そう思って今まで生きてきた。小中といくつか新しいことをやってみて、どれも「違うな」となって途中でやめてしまった。高校に入って心機一転やってみようという矢先にこれだ。すぐにやらせてもらえるかと思ったのに、基礎練や筋トレ、先輩のやったことの後片付けが待っていた。それならまだ耐えられるのに、筋が良い同級生はそれらをクリアして部活本来のことをやっている。私より先に、何者かになるための切符を手に入れている。
そのとき、ガクンと電車が揺れて停車する。どうやら次の駅で緊急停止ボタンが押されたらしい。気落ちしているときに限って追撃がくる。思わずげんなりした。周囲がそのことを気にした風がないのも、その感情を加速させる。
しばらくして運転再開のアナウンスとともに、緩やかに電車は走り出す。日はほとんど沈み、薄黒の空がのしかかるように存在している。最寄り駅はまだだが、このまま家に帰るのも気乗りしなかった。ドアの開く音がして、反射的に立ち上がり外に出る。途端に身体を蒸し暑さが包んだ。やはり戻ろうかと振り返った先で、無情にもドアが閉まる。緩やかに走り出す銀色を見送り、改めて周囲を見回した。人気のない小さな駅だ。ホームドアもない。駅を囲む柵も低く、周囲の市街地がよく見えた。駅の外まで出て散歩する気も起きないので、ベンチに腰掛けてボーッとする。頭は、また何者かについて益体もない思考を回し始めた。
人生は意外と短いと大人は言う。社会に出たらあっという間に人生は過ぎ去ると。そうなのなら、それまでに何者かにならないといけない。
何者とはなんだろうか。それに明確なアンサーは出せていない。でもならなければ、私は取り残されてしまうのだ。このまま、私は何者にもなれないのだろうか。
「本当に、そうなのかな」
駅の外を見る。同じくらいの年齢の男の子が、必死になって走っているのが見えた。彼は多分、何者かになろうとしている。そう思わせるような気迫を持っていた。
私に足りないのは、何者になろうという覚悟なのではないか。ずっと何者かになれることを願ってきた。そもそも、それが過ちなのではないか。惰性の人生の中で何者になろうなど、甚だおかしな話だ。彼のように、全力のさらに全力を振り絞る姿勢がなければならないのだろう。
そう思おう。
浅い決意かもしれない。それでもそう思って走り出さなければ。
目の前に滑り込んできた銀色を無視して、改札を通る。彼のように無性に走り出したい気分だった。地図を見れば不可能かギリギリの距離だ。
「……よし!」
やってやろう。
話はそれからだ。