木下ラルゼは首を傾げる
目の前で、筋骨隆々の見知らぬ男が、見慣れた名刺を持って現れた。閉店作業をしていた私は前触れのない訪問に驚きながら、男の顔を見上げる。
「水戸健太郎はいるか?」
「は、はい、おります。あ、えと、案内しますので、応接室で少々お待ちを……」
鍵をかけようとしていた引き戸を開け、男を連れてカウンター席を横切り奥へと歩みを進める。
「私は研究会に用があったのだが」
「え、えと、色々事情がありまして……」
いくつものくぼみの付いた鉄板を横目に見て眉をひそめる男に恐縮しながら、トイレの入口まで辿り着く。そこにあるのは当然トイレの扉だが、決められた手順で壁を指に押し込めば、何故か無機質な階段が続く扉へと変貌する仕掛けだ。原理はわからない。
階段を降りてすぐにある応接室に男を通すと、いくつも扉のある細長い通路の奥へと進む。その最奥にあった鉄製の扉を開けると、リノリウムの床に乱雑に積まれたダンボールを縫い、唸り声のする机を目指した。そこには一人の白衣の男性が、浅く椅子に座り、気だるげに息を吐いていた。机の陰からは、獣のような唸り声がしている。
「あの、えと、水戸かいちょ、水戸所長……」
「なんで言い直したの……?」
呼ばれた彼は、やはり気だるげに振り向く。一見頼りなさそうだが、行き倒れていた私を救って、働き口を見つけてくれた人だ。
黒縁の眼鏡越しに、薄っすらと隈のついた目がこちらを見た。
「ここって、何をするところなんですか……?」
「すごい今更だね」
彼は行き倒れた私を救い、さらには研究員という地位を与えてくれた。しかしその場所が奇妙だった。たこ焼き屋の地下にある研究会。名前はなんと『ミートボール研究会』。「たこ焼き研究会じゃないんだ……」と思ったのは記憶に新しい。
たこ焼き屋は不定期営業で、営業するときは二人して焼いたり渡したりといった業務をしているが、それ以外では研究員として所長の身の回りのことをしている。来客対応もその一環だ。
「まぁそれは話すけど、用件ありそうだね?」
「軍の方が、お見えでして……」
「あ〜、じゃあ厄介事かな……。わかった、ありがとう」
そう言うと彼は立ち上がり、右手を机の陰に伸ばし――そしていつものように指を噛みちぎられた。
「うーん、今日も元気いいね!!」
撫でようとするたびに、ペンキャップを外すように指が引きちぎられる。それを意に介さず残った手の平で机の陰にいた彼女の頭を撫でた彼は、最後の仕上げに手を引きちぎられ、満足そうに応接室へと向かった。向こうの軍人さん、いつもの人じゃなかったけど大丈夫だろうか。
部屋に点々と残る血痕を拭き取る。部屋の出入り口につく頃には血痕もすっかりなくなっていて、相変わらずの謎ボディだなぁと遠い目になった。
不意に背中越しの唸り声を聞き、振り返る。そこには顔中を血でベタベタにした銀白髪の少女が、膝立ちでこちらを見つめていた。細く尖った獣耳と切れ長の目をした彼女は、腰まである髪を煩わしそうに触りながら、こちらに顔を押し付けようとする。
「あっ、こら」
汚れを私の服で拭き取ろうという魂胆を理解して、手元にあった新品のタオルを顔に被せる。しばらくバタバタと暴れていたが、先ほどの凶暴さとは打って変わって小動物のような暴れ具合だ。加減をすることを知っているのだろう。
「よ、よ~し、よしよし」
血のついたタオルを彼女から引っ剥がし、綺麗になった髪を手で梳る。そうすると、嬉しそうに鼻を鳴らして口角を上げた。
「私に対してはこんななのに、どうして所長にはあんなに機嫌悪いんだろう……」
機嫌悪いという次元ではないが、いい加減に慣れてきた自分が怖い。
しばらく彼女の柔らかな銀白を楽しんでいたところで、慌ただしい足音が近づいてきた。その足音は勢いのままに扉を開け放ち、段ボールの山が少し崩れる。
「木下、急ぎの用事ができたから留守番頼んでもいい?」
「え、はい大丈夫です……」
「ってあ! 撫でてるズルいな! 僕も撫でる」
「り、両手なくなると困りませんか……?」
こちらに手を伸ばしかけた彼にそう言うとビタッと動かなくなり、やがて苦渋の表情に変わった。
しばらく動かなくなってしまい、どういう言葉をかけようか迷っていると、ゆっくりと手を引っ込めた彼が苦々しい表情のまま頷く。
「確かに、そう。……留守番任せた」
「は、はい……」
名残惜しそうに廊下へ戻る彼を見届け、いつの間にか机の陰という定位置で寝転んでいた彼女を見やる。
そして、最初の疑問に答えてもらっていないことに気づいた。ここの研究員になってから幾度かした質問だが、毎回急用に出かけてしまいはぐらかされている。今回もはぐらかされる気しかしない。
溜息を吐き、落ちた段ボールから零れ出た紙を拾う。よくわからない文字で論文っぽいものが書かれていた。謎すぎる。
「ここ、本当に何をするところなんだろう……?」